遊佐高清

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遊佐高清(ゆさ たかきよ、生没年不詳)は、戦国武将1569年までの存命は確認されている。

左衛門大夫、越中守と称した。永禄年間後期から河内国紀伊国守護畠山氏の奉行人として活躍。河内守護代遊佐長教の一族であると考えられている。紀伊国の守護代であったとする史料もある。また、名前の「高」は畠山高政の偏諱である。

畠山高政の側近の奉行で、寺社の監督を主に担当した。

その他、家中の統制においても大きな役割を果たしていたとする史料もあり、遊佐長教の暗殺後、その子の遊佐信教が成長するまでの繋ぎとしての存在ではなく、遊佐長教の執政期に勢力を失った主家の畠山高政のもとで、遊佐長教系と対立する形で畠山氏を支えていたとする研究もある。現実に、教興寺の戦いの時点で遊佐信教は三十路の半ばを越えている。また、近年の研究で高清と信教はほぼ同年代の人物であり、遊佐氏の中継ぎの人物という過去の評価は誤りであったことが判明している。

また、三好氏と戦った久米田の戦い教興寺の戦いでは旗本衆・譜代衆を指揮するなど武将としても活動しており、能力的にも畠山氏を支えた遊佐氏一族として見劣りしない力量者であったと評価されている。

また、畠山高政の死去を見守った家臣の一人「遊佐越中殿」もこの遊佐高清であるとされるが、異説もある。