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[[1910年]]から[[1915年]]は家庭教師につき、小学校の課程を学んだ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノ[[スカラ座]]オペラのボックス席を所有していたため、定期的にスカラ座に通う。[[1914年]]、第一次世界大戦が起こると、父は陸軍に入隊した。チェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、[[ジャコモ・プッチーニ]]、指揮者の[[トスカニーニ]]、作家の[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]と知り合う。
 
[[1910年]]から[[1915年]]は家庭教師につき、小学校の課程を学んだ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノ[[スカラ座]]オペラのボックス席を所有していたため、定期的にスカラ座に通う。[[1914年]]、第一次世界大戦が起こると、父は陸軍に入隊した。チェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、[[ジャコモ・プッチーニ]]、指揮者の[[トスカニーニ]]、作家の[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]と知り合う。
 
[[1920年]]、[[ミラノ音楽院]]で、チェロ独奏を行い、新聞に好意的な批評が掲載される。父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。
 
[[1920年]]、[[ミラノ音楽院]]で、チェロ独奏を行い、新聞に好意的な批評が掲載される。父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。
1922年、16歳初恋の女性の後を追い、[[ローマ]]に家出する。
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[[1922年]]、16歳初恋の女性の後を追い、[[ローマ]]に家出する。
1924年に両親が別居した後、18歳のルキノは母親につきミラノの家で育った(1920年別居説もある)。モンテ・カッシーノのベネディクト修道院に家出する。
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[[1924年]]に両親が別居した後、18歳のルキノは母親につきミラノの家で育った([[1920年]]別居説もある)。モンテ・カッシーノのベネディクト修道院に家出する。
1926年、20歳からピネロロの騎兵学校に2年間通う。特務曹長として、サヴォイ連隊に勤務し、除隊後は競走馬に飼育に没頭する。
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[[1926年]]、20歳からピネロロの騎兵学校に2年間通う。特務曹長として、サヴォイ連隊に勤務し、除隊後は競走馬に飼育に没頭する。
1927年12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団がゴルドーニの『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。
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[[1927年]]12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団が[[ゴルドーニ]]の『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。
 
[[1928年]](22歳)、父の出資するテアトロ・ダルテ劇団の舞台「賢妻」の小道具を担当する。
 
[[1928年]](22歳)、父の出資するテアトロ・ダルテ劇団の舞台「賢妻」の小道具を担当する。
1929年、23歳で[[リビア]]の砂漠を2ヵ月間旅行する。9月、ペアチャンツア付近で交通事故を起こし、同乗していた運転手が死亡する。12月には持ち馬のエストゥルゲオンが、モリッツの冬季レースで優勝する。
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[[1929年]]、23歳で[[リビア]]の砂漠を2ヵ月間旅行する。9月、ペアチャンツア付近で交通事故を起こし、同乗していた運転手が死亡する。12月には持ち馬のエストゥルゲオンが、モリッツの冬季レースで優勝する。
1930年、24歳で、サン・シーロに厩舎を建設する。
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[[1930年]]、24歳で、サン・シーロに厩舎を建設する。
1931年、愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。
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[[1931年]]、愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。
1933年から1934年、新規に7頭の競走馬を購入する。[[フランス]]・[[イギリス]]を旅行。パリの社交界で、[[ジャン・コクトー]]、[[クルト・ヴァイル]]、セルジュ・リファール、[[ココ・シャネル]]に出会う。[[スタンバーグ]]の『[[嘆きの天使]]』や[[シュトロハイム]]の『[[結婚行進曲]]』、[[レゴーシン]]の『孤帆は白む』などに感銘を受けた。
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[[1933年]]から[[1934年]]、新規に7頭の競走馬を購入する。[[フランス]]・[[イギリス]]を旅行。パリの社交界で、[[ジャン・コクトー]]、[[クルト・ヴァイル]]、セルジュ・リファール、[[ココ・シャネル]]に出会う。[[スタンバーグ]]の『[[嘆きの天使]]』や[[シュトロハイム]]の『[[結婚行進曲]]』、[[レゴーシン]]の『孤帆は白む』などに感銘を受けた。
1934年、28歳でイルマ・ヴィンディッシュ・グレーツ公爵令嬢と出あい、結婚を申し込む。イルマの父親の反対で断念する。
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[[1934年]]、28歳でイルマ・ヴィンディッシュ・グレーツ公爵令嬢と出あい、結婚を申し込む。イルマの父親の反対で断念する。
  
 
===映画界へ===
 
===映画界へ===
1936年、ココ・シャネルは自分の友人ジャン・ルノワールを紹介した。映画監督として巨匠となっていたルノワールは、当時はまだ無名のヴィスコンティを助監督に起用したほか、シャネルが協力した代表作『どん底』と『ピクニック』の2作品では衣装を担当させた。ヴィスコンティは、まだ将来の進路を決めていなかったが、この経験から映画製作を主軸とする決心をした。ルノワールとコッホを通じてコミュニストや政治活動の世界に触れる。
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1936年、ココ・シャネルは自分の友人ジャン・ルノワールを紹介した。映画監督として巨匠となっていたルノワールは、当時はまだ無名のヴィスコンティを助監督に起用したほか、シャネルが協力した代表作『[[どん底]]』と『[[ピクニック]]』の2作品では衣装を担当させた。ヴィスコンティは、まだ将来の進路を決めていなかったが、この経験から映画製作を主軸とする決心をした。ルノワールとコッホを通じてコミュニストや政治活動の世界に触れる。
1936年10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。
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[[1936年]]10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。
1937年、8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。
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[[1937年]]、8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。
1939年1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳。
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[[1939年]]1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳。
 
1939年4月、ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。
 
1939年4月、ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。
1940年、6月イタリアは枢軸国に加わり、参戦する。イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督のカール・コッホを補佐してこの作品を完成させる。
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[[1940年]]、6月イタリアは枢軸国に加わり、参戦する。イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督の[[カール・コッホ]]を補佐してこの作品を完成させる。
1941年、ローマのコッホの家で、ダリオ・プッチーニに出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。6月『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」記事を書く。12月父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。
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[[1941年]]、ローマのコッホの家で、[[ダリオ・プッチーニ]]に出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。6月『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」記事を書く。12月父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。
 
===映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』===
 
===映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』===
1942年(36歳)6月から12月に掛けて映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を行う。12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。
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[[1942年]](36歳)6月から12月に掛けて映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を行う。12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。
1943年(37歳)5月、映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』公開、数日で各地で上映禁止となる。9月8日「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。
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[[1943年]]5月(37歳)、映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』公開、数日で各地で上映禁止となる。9月8日「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。
 
10月28日、兄のグイドはエルアラメインで戦死する。
 
10月28日、兄のグイドはエルアラメインで戦死する。
 
9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」記事を発表する。
 
9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」記事を発表する。
  
 
1943年10月27日 アプルッツォに潜伏していたが、ヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下する。
 
1943年10月27日 アプルッツォに潜伏していたが、ヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下する。
1944年、2月 偽名で密かにローマに戻り、パルチザンを援助。
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[[1944年]]、2月 偽名で密かにローマに戻り、[[パルチザン]]を援助する。
4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕されペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ刑務所に移送される。
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4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕され[[ペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所]]へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ刑務所に移送される。
 
6月3日、ヴィスコンティは処刑される前日に脱走し、九死に一生を得る。
 
6月3日、ヴィスコンティは処刑される前日に脱走し、九死に一生を得る。
 
6月4日、アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。
 
6月4日、アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。
6月~7月、レジスタンスの経験を元に『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。秋に[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]達とレジスタンス映画の企画を練る。
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6月~7月、[[レジスタンス]]の経験を元に『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。秋に[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]達とレジスタンス映画の企画を練る。
 
===戦後の舞台演出家===
 
===戦後の舞台演出家===
1945年1月30日 コクトーの『恐るべき親たち』(ローマのエリゼオ劇場で)で舞台演出家デビューする。
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[[1945年]]1月30日 [[コクトー]]の『[[恐るべき親たち]]』(ローマの[[エリゼオ劇場]])で舞台演出家としてデビューする。
3月、ローマのクイリーノ劇場でヘミングウェイ『第五列』を上演。
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3月、ローマのクイリーノ劇場で[[ヘミングウェイ]]『第五列』を上演。
10月2日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『タイプライター』を上演。
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10月2日 ローマのエリゼオ劇場で[[コクトー]]の『タイプライター』を上演。
10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』とサルトルの『出口なし』を上演。
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10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』と[[サルトル]]の『[[出口なし]]』を上演。
 
10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』上演。
 
10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』上演。
12月4日 ミラノのオリンピア劇場でコールドウェルの『タバコ・ロード』上演。
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12月4日 ミラノのオリンピア劇場で[[コールドウェル]]の『[[タバコ・ロード]]』上演。
 
12月14日 ミラノでの『アダム』上演禁止を受ける。
 
12月14日 ミラノでの『アダム』上演禁止を受ける。
1946年、ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『フィガロの結婚』上演。
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[[1946年]]、ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『[[フィガロの結婚]]』上演。
 
11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団『罪と罰』を上演。
 
11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団『罪と罰』を上演。
 
12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。
 
12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。
 
1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。
 
1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。
2月 フィレンツェのデ・ベルゲラ劇場でアヌーイの『ユリディース』を上演。
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2月 フィレンツェの[[デ・ベルゲラ劇場]]で[[アヌーイ]]の『ユリディース』を上演。
 
===映画『揺れる大地』===
 
===映画『揺れる大地』===
1947年(41歳)、イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るためシチリア島に赴く。11月から翌年5月にかけて、シチリアのアーチ・トレッツアで『揺れる大地』を撮影する。
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[[1947年]](41歳)、イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るため[[シチリア島]]に赴く。11月から翌年5月にかけて、シチリアのアーチ・トレッツアで『揺れる大地』を撮影する。
1948年(42歳)5月、ヴェネチア映画祭で映画『揺れる大地』が上演され国際賞を受賞する。
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[[1948年]](42歳)5月、ヴェネチア映画祭で映画『[[揺れる大地]]』が上演され国際賞を受賞する。
 
11月、ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』上演
 
11月、ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』上演
1949年1月、ローマのエリゼオ劇場で『欲望という名の電車』を上演。
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[[1949年]]1月、ローマのエリゼオ劇場で『[[欲望という名の電車]]』を上演。
4月、ローマのクイリーノ劇場で『オレステ』上演。
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4月、ローマの[[クイリーノ劇場]]で『オレステ』上演。
6月、フィレンツェ五月音楽祭でシェークスピアの『トロイラスとクレシダ』上演。
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6月、フィレンツェ五月音楽祭で[[シェークスピア]]の『[[トロイラスとクレシダ]]』上演。
1951年2月、ローマのエリゼオ劇場でアーサー・ミラー『セールスマンの死』上演。
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[[1951年]]2月、ローマのエリゼオ劇場で[[アーサー・ミラー]]『[[セールスマンの死]]』上演。
4月、ミラノのヌオーヴォ劇場で『欲望という名の電車』を新演出で上演。
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4月、ミラノのヌオーヴォ劇場で『[[欲望という名の電車]]』を新演出で上演。
10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でファッブリの『誘惑者』上演。
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10月 ヴェネチアの[[ラ・フェニーチェ劇場]]でファッブリの『誘惑者』上演。
 
===映画『ベリッシマ』===
 
===映画『ベリッシマ』===
1951年12月、短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するが、イタリア国内では上映禁止になる。12月アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。
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[[1951年]]12月、短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するが、イタリア国内では上映禁止になる。12月アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。
1952年10月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『宿屋の女主人』を上演。
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[[1952年]]10月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場で[[ゴルドーニ]]の『[[宿屋の女主人]]』を上演。
12月 ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『三人姉妹』を上演。
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12月 ローマの[[エリゼオ劇場]]で[[チェーホフ]]の『[[三人姉妹]]』を上演。
1953年、スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。
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[[1953年]]、スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。
3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『煙草の害について』とエリビデスの『メディア』を上演。
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3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『[[煙草の害について]]』とエリビデスの『[[メディア]]』を上演。
 
10月、オムニバス映画『われら女性』公開。
 
10月、オムニバス映画『われら女性』公開。
 
===映画『夏の嵐』===
 
===映画『夏の嵐』===
1954年9月、映画『夏の嵐』がヴェネチア映画祭で上演。
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[[1954年]]9月、映画『夏の嵐』が[[ヴェネチア映画祭]]で上演。
1954年10月 ミラノのヌオーヴォ劇場でレビュー『フェスティバル』、オリンピア劇場でジャコーザの『木の葉のように』を上演。
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1954年10月 ミラノの[[ヌオーヴォ劇場]]でレビュー『フェスティバル』、[[オリンピア劇場]]で[[ジャコーザ]]の『[[木の葉のように]]』を上演。
 
12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。
 
12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。
1955年3月、スカラ座でオペラ『夢遊病の女』を上演。
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[[1955年]]3月、[[スカラ座]]でオペラ『[[夢遊病の女]]』([[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]作曲)を上演。
5月、スカラ座でオペラ『椿姫』を上演。
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5月、スカラ座でオペラ『[[椿姫]]』を上演。
11月、ローマのクイリーノ劇場でミラーの『るつぼ』を上演。
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11月、ローマの[[クイリーノ劇場]]でミラーの『るつぼ』を上演。
12月、ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『ワーニャ叔父さん』の上演。
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12月、ローマの[[エリゼオ劇場]]で[[チェーホフ]]の『[[ワーニャ叔父さん]]』の上演。
1956年6月、パリのサラ・ベルナール劇場で『宿屋の女主人』を再演。
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[[1956年]]6月、パリの[[サラ・ベルナール劇場]]で『[[宿屋の女主人]]』を再演。
 
===映画『白夜』===
 
===映画『白夜』===
1957年1月 ローマのアルティ劇場でストリンドベリィの『令嬢ジュリー』を上演。
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[[1957年]]1月 ローマの[[アルティ劇場]]で[[ストリンドベリィ]]の『令嬢ジュリー』を上演。
1月から3月にかけてチネチッタ撮影所で『白夜』を撮影。
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1月から3月にかけてチネチッタ撮影所で『[[白夜]]』を撮影。
4月 ミラノのスカラ座でオペラ『アンナ・ボレーナ』を上演。
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4月 ミラノのスカラ座でオペラ『[[アンナ・ボレーナ]]』を上演。
 
6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。
 
6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。
 
8月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。
 
8月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。
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9月、西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。
 
9月、西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。
 
===映画『若者のすべて』===
 
===映画『若者のすべて』===
1958年1月、ローマのエリゼオ劇場でミラーの『橋からの眺め』を上演。
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[[1958年]]1月、ローマのエリゼオ劇場でミラーの『[[橋からの眺め]]』を上演。
 
4月、パリで『スミルネの興行師』を再演。
 
4月、パリで『スミルネの興行師』を再演。
5月、ロンドンのコヴェント・ガーデンでオペラ『ドン・カルロ』を上演。
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5月、ロンドンの[[コヴェント・ガーデン]]でオペラ『[[ドン・カルロ]]』を上演。
6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『マクベス』を上演。
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6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『[[マクベス]]』を上演。
 
夏、映画『若者のすべて』の脚本執筆。
 
夏、映画『若者のすべて』の脚本執筆。
 
10月、ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。
 
10月、ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。
11月、パリのアンバサドゥール劇場で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。
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11月、パリの[[アンバサドゥール劇場]]で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。
 
12月、ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。
 
12月、ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。
 
1959年3月、ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。
 
1959年3月、ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。
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1961年2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。
 
1961年2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。
 
3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。
 
3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。
6月 スポレートのヌォーヴォ劇場で楽劇『サロメ』を上演。
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6月 スポレートの[[ヌォーヴォ劇場]]で楽劇『[[サロメ]]』を上演。
 
===映画『山猫』===
 
===映画『山猫』===
1961年8月から9月、デ・パリオス撮影所で『ボッカッチオ’70』の挿話「前金」を撮影する。11月 シチリアで映画『山猫』のロケハンを行う。
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[[1961年]]8月から9月、デ・パリオス撮影所で『ボッカッチオ’70』の挿話「前金」を撮影する。11月 [[シチリア]]で映画『山猫』のロケハンを行う。
1962年2月、オムニバス映画『ボッカッチオ’70』が公開される。ヴィスコンティはエピソード『前金』を担当(主演はロミー・シュナイダー)
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[[1962年]]2月、オムニバス映画『ボッカッチオ’70』が公開される。ヴィスコンティはエピソード『前金』を担当(主演はロミー・シュナイダー)
1963年2月 パレルモのマッシモ劇場でオペラ『庭園の悪魔』を上演。
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[[1963年]]2月 パレルモのマッシモ劇場でオペラ『庭園の悪魔』を上演。
 
3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞
 
3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞
 
6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』上演。
 
6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』上演。
7月 スポレートのカイオ・メリッソ劇場でジイドの『十三番目の木』上演。
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7月 スポレートのカイオ・メリッソ劇場で[[ジイド]]の『[[十三番目の木]]』上演。
 
=== 映画『熊座の淡き星影』===
 
=== 映画『熊座の淡き星影』===
1964年5月 ローマのオペラ座でオペラ『フィガロの結婚』を上演。
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[[1964年]]5月 ローマのオペラ座でオペラ『[[フィガロの結婚]]』を上演。
9月 モスクワのボリショイ劇場で『イル・トロヴァトーレ』を上演。
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9月 モスクワのボリショイ劇場で『[[イル・トロヴァトーレ]]』を上演。
 
11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。
 
11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。
1965年1月 パリのデュ・ジムナズ劇場でミラーの『転落の後に』を上演。
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[[1965年]]1月 パリの[[デュ・ジムナズ劇場]]でミラーの『[[転落の後に]]』を上演。
 
9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影』が出品され、金獅子賞を授賞。
 
9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影』が出品され、金獅子賞を授賞。
10月 ローマのヴァレ劇場でチェーホフの『桜の園』を上演
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10月 ローマのヴァレ劇場でチェーホフの『[[桜の園]]』を上演
 
11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』上演。
 
11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』上演。
1966年3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『ファルスタッフ』上演。
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[[1966年]]3月 [[ウィーン国立歌劇場]]でオペラ『[[ファルスタッフ]]』([[ジュゼッペ・ヴェルディ]]作曲)上演。
4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで楽劇『ばらの騎士』上演。
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4月 [[ロンドン]]の[[コヴェント・ガーデン]]で楽劇『[[ばらの騎士]]』([[リヒャルト・シュトラウス]]作曲)上演。
 
=== 映画『異邦人』===
 
=== 映画『異邦人』===
1967年2月 オムニバス映画『華やな魔女たち』(『疲れ切った魔女』エピソード担当)公開。
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[[1967年]]2月 オムニバス映画『華やな魔女たち』(『疲れ切った魔女』エピソード担当)公開。
  
 
4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。
 
4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。
6月 フィレンツェのビッティ宮でゲーテの『エグモント』を上演。アルジェリアで『異邦人』を撮影する。
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6月 フィレンツェの[[ビッティ宮]]でゲーテの『[[エグモント]]』を上演。アルジェリアで『異邦人』を撮影する。
 
9月 映画『異邦人』公開。
 
9月 映画『異邦人』公開。
10月 チェゼーナのポンチ劇場でテストーリの『モンツァの尼僧』を上演。
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10月 チェゼーナのポンチ劇場で[[テストーリ]]の『モンツァの尼僧』を上演。
 
年末、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。
 
年末、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。
1969年2月 ミラノのサン・パビラ劇場でギンズブルグの『インセルツィオーネ』を上演。
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1969年2月 ミラノの[[サン・パビラ劇場]]で[[ギンズブルグ]]の『[[インセルツィオーネ]]』を上演。
3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『シモン・ボッカネグラ』を上演。
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3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『[[シモン・ボッカネグラ]]』を上演。
 
10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。
 
10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。
 
=== 映画『ベニスに死す』===
 
=== 映画『ベニスに死す』===
1970年『ベニスに死す』のタジオ役の少年を探して、デンマーク、スエーデン、ポーランドを旅行する。『失われた時をもとめて』のシナリオ完成。
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[[1970年]]『ベニスに死す』のタジオ役の少年を探して、[[デンマーク]]、[[スエーデン]]、[[ポーランド]]を旅行する。『[[失われた時をもとめて]]』のシナリオ完成。
 
6月「タジオを求めて」テレビ放映。
 
6月「タジオを求めて」テレビ放映。
 
1971年3月、ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。
 
1971年3月、ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。
 
プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめ、ロケハンを行う。
 
プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめ、ロケハンを行う。
 
=== 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』===
 
=== 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』===
1972年1月~4月 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のドイツ・オーストリアでロケを行う。
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[[1972年]]1月~4月 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のドイツ・オーストリアでロケを行う。
 
7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、血栓症の発作で倒れる。
 
7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、血栓症の発作で倒れる。
 
9月、スイスチューリッヒの病院を退院し、コモ湖畔チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。
 
9月、スイスチューリッヒの病院を退院し、コモ湖畔チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。
1973年1月、西ドイツのボンで、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のプレミア上映。
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[[1973年]]1月、西ドイツのボンで、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のプレミア上映。
 
=== 映画『家族の肖像』===
 
=== 映画『家族の肖像』===
1974年4月~7月にかけてデ・パリオス撮影所で映画『家族の肖像』を撮影する。
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[[1974年]]4月~7月にかけて[[デ・パリオス撮影所]]で映画『家族の肖像』を撮影する。
 
12月、映画『家族の肖像』公開。
 
12月、映画『家族の肖像』公開。
 
=== 遺作映画『イノセント』===
 
=== 遺作映画『イノセント』===
1975年、トーマス・マンの『魔の山』とダヌンツィオの『快楽』の映画化を企画するが、実現せず。
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[[1975年]]、[[トーマス・マン]]の『[[魔の山]]』と[[ダヌンツィオ]]の『快楽』の映画化を企画するが、実現せず。
 
1975年4月 転倒して肩と大腿骨を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。
 
1975年4月 転倒して肩と大腿骨を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。
 
9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。
 
9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。
1976年1月 映画『イノセント』の撮影完了
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[[1976年]]1月 映画『イノセント』の撮影完了
3月17日、ローマのフレミング街101番地の自宅マンションで死去。
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3月17日、[[ローマ]]のフレミング街101番地の自宅マンションで死去。
3月19日、聖イニャツイオ教会で葬儀が行われる。
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3月19日、[[聖イニャツイオ教会]]で葬儀が行われる。
 
5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映される。
 
5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映される。
  

2022年1月1日 (土) 00:01時点における最新版

ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti di Modrone, 1906年11月2日 - 1976年3月17日)はイタリアのネオリアリズム映画の父と言われた映画監督であり、また演出家、脚本家でもあった。後年は貴族制の没落に伴う、美と死の作家となった。ヴィスコンティ家は1277年から1447年まで歴代のミラノを支配した家系である。

概要[編集]

幼少期から青年期[編集]

1906年11月2日にイタリアミラノで生まれる。父は北イタリアの貴族であるモドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ、母は資産家の娘カルロ・エルバの第四子である。ローマカソリックの洗礼を受けた[1]1910年から1915年は家庭教師につき、小学校の課程を学んだ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノスカラ座オペラのボックス席を所有していたため、定期的にスカラ座に通う。1914年、第一次世界大戦が起こると、父は陸軍に入隊した。チェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、ジャコモ・プッチーニ、指揮者のトスカニーニ、作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合う。 1920年ミラノ音楽院で、チェロ独奏を行い、新聞に好意的な批評が掲載される。父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。 1922年、16歳初恋の女性の後を追い、ローマに家出する。 1924年に両親が別居した後、18歳のルキノは母親につきミラノの家で育った(1920年別居説もある)。モンテ・カッシーノのベネディクト修道院に家出する。 1926年、20歳からピネロロの騎兵学校に2年間通う。特務曹長として、サヴォイ連隊に勤務し、除隊後は競走馬に飼育に没頭する。 1927年12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団がゴルドーニの『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。 1928年(22歳)、父の出資するテアトロ・ダルテ劇団の舞台「賢妻」の小道具を担当する。 1929年、23歳でリビアの砂漠を2ヵ月間旅行する。9月、ペアチャンツア付近で交通事故を起こし、同乗していた運転手が死亡する。12月には持ち馬のエストゥルゲオンが、モリッツの冬季レースで優勝する。 1930年、24歳で、サン・シーロに厩舎を建設する。 1931年、愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。 1933年から1934年、新規に7頭の競走馬を購入する。フランスイギリスを旅行。パリの社交界で、ジャン・コクトークルト・ヴァイル、セルジュ・リファール、ココ・シャネルに出会う。スタンバーグの『嘆きの天使』やシュトロハイムの『結婚行進曲』、レゴーシンの『孤帆は白む』などに感銘を受けた。 1934年、28歳でイルマ・ヴィンディッシュ・グレーツ公爵令嬢と出あい、結婚を申し込む。イルマの父親の反対で断念する。

映画界へ[編集]

1936年、ココ・シャネルは自分の友人ジャン・ルノワールを紹介した。映画監督として巨匠となっていたルノワールは、当時はまだ無名のヴィスコンティを助監督に起用したほか、シャネルが協力した代表作『どん底』と『ピクニック』の2作品では衣装を担当させた。ヴィスコンティは、まだ将来の進路を決めていなかったが、この経験から映画製作を主軸とする決心をした。ルノワールとコッホを通じてコミュニストや政治活動の世界に触れる。 1936年10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。 1937年、8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。 1939年1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳。 1939年4月、ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。 1940年、6月イタリアは枢軸国に加わり、参戦する。イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督のカール・コッホを補佐してこの作品を完成させる。 1941年、ローマのコッホの家で、ダリオ・プッチーニに出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。6月『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」記事を書く。12月父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。

映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』[編集]

1942年(36歳)6月から12月に掛けて映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を行う。12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。 1943年5月(37歳)、映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』公開、数日で各地で上映禁止となる。9月8日「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。 10月28日、兄のグイドはエルアラメインで戦死する。 9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」記事を発表する。

1943年10月27日 アプルッツォに潜伏していたが、ヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下する。 1944年、2月 偽名で密かにローマに戻り、パルチザンを援助する。 4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕されペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ刑務所に移送される。 6月3日、ヴィスコンティは処刑される前日に脱走し、九死に一生を得る。 6月4日、アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。 6月~7月、レジスタンスの経験を元に『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。秋にミケランジェロ・アントニオーニ達とレジスタンス映画の企画を練る。

戦後の舞台演出家[編集]

1945年1月30日 コクトーの『恐るべき親たち』(ローマのエリゼオ劇場)で舞台演出家としてデビューする。 3月、ローマのクイリーノ劇場でヘミングウェイ『第五列』を上演。 10月2日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『タイプライター』を上演。 10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』とサルトルの『出口なし』を上演。 10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』上演。 12月4日 ミラノのオリンピア劇場でコールドウェルの『タバコ・ロード』上演。 12月14日 ミラノでの『アダム』上演禁止を受ける。 1946年、ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『フィガロの結婚』上演。 11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団『罪と罰』を上演。 12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。 1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。 2月 フィレンツェのデ・ベルゲラ劇場アヌーイの『ユリディース』を上演。

映画『揺れる大地』[編集]

1947年(41歳)、イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るためシチリア島に赴く。11月から翌年5月にかけて、シチリアのアーチ・トレッツアで『揺れる大地』を撮影する。 1948年(42歳)5月、ヴェネチア映画祭で映画『揺れる大地』が上演され国際賞を受賞する。 11月、ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』上演 1949年1月、ローマのエリゼオ劇場で『欲望という名の電車』を上演。 4月、ローマのクイリーノ劇場で『オレステ』上演。 6月、フィレンツェ五月音楽祭でシェークスピアの『トロイラスとクレシダ』上演。 1951年2月、ローマのエリゼオ劇場でアーサー・ミラーセールスマンの死』上演。 4月、ミラノのヌオーヴォ劇場で『欲望という名の電車』を新演出で上演。 10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でファッブリの『誘惑者』上演。

映画『ベリッシマ』[編集]

1951年12月、短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するが、イタリア国内では上映禁止になる。12月アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。 1952年10月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『宿屋の女主人』を上演。 12月 ローマのエリゼオ劇場チェーホフの『三人姉妹』を上演。 1953年、スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。 3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『煙草の害について』とエリビデスの『メディア』を上演。 10月、オムニバス映画『われら女性』公開。

映画『夏の嵐』[編集]

1954年9月、映画『夏の嵐』がヴェネチア映画祭で上演。 1954年10月 ミラノのヌオーヴォ劇場でレビュー『フェスティバル』、オリンピア劇場ジャコーザの『木の葉のように』を上演。 12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。 1955年3月、スカラ座でオペラ『夢遊病の女』(ヴィンチェンツォ・ベッリーニ作曲)を上演。 5月、スカラ座でオペラ『椿姫』を上演。 11月、ローマのクイリーノ劇場でミラーの『るつぼ』を上演。 12月、ローマのエリゼオ劇場チェーホフの『ワーニャ叔父さん』の上演。 1956年6月、パリのサラ・ベルナール劇場で『宿屋の女主人』を再演。

映画『白夜』[編集]

1957年1月 ローマのアルティ劇場ストリンドベリィの『令嬢ジュリー』を上演。 1月から3月にかけてチネチッタ撮影所で『白夜』を撮影。 4月 ミラノのスカラ座でオペラ『アンナ・ボレーナ』を上演。 6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。 8月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。 9月、ヴェネチア映画祭でチアス社製作の映画『白夜』が上映され、銀獅子賞を受賞。 9月、西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。

映画『若者のすべて』[編集]

1958年1月、ローマのエリゼオ劇場でミラーの『橋からの眺め』を上演。 4月、パリで『スミルネの興行師』を再演。 5月、ロンドンのコヴェント・ガーデンでオペラ『ドン・カルロ』を上演。 6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『マクベス』を上演。 夏、映画『若者のすべて』の脚本執筆。 10月、ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。 11月、パリのアンバサドゥール劇場で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。 12月、ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。 1959年3月、ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。 6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『アルバ公爵』を上演。 1960年2月~6月 映画『若者のすべて』の撮影。 9月、映画『若者のすべて』がヴェネチア映画祭に出品され、審査員特別賞・国際映画批評家連盟賞を授賞する。 12月 ローマのエリゼオ劇場でテストーリの『アリアルダ』上演。 1961年2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。 3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。 6月 スポレートのヌォーヴォ劇場で楽劇『サロメ』を上演。

映画『山猫』[編集]

1961年8月から9月、デ・パリオス撮影所で『ボッカッチオ’70』の挿話「前金」を撮影する。11月 シチリアで映画『山猫』のロケハンを行う。 1962年2月、オムニバス映画『ボッカッチオ’70』が公開される。ヴィスコンティはエピソード『前金』を担当(主演はロミー・シュナイダー) 1963年2月 パレルモのマッシモ劇場でオペラ『庭園の悪魔』を上演。 3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞 6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』上演。 7月 スポレートのカイオ・メリッソ劇場でジイドの『十三番目の木』上演。

映画『熊座の淡き星影』[編集]

1964年5月 ローマのオペラ座でオペラ『フィガロの結婚』を上演。 9月 モスクワのボリショイ劇場で『イル・トロヴァトーレ』を上演。 11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。 1965年1月 パリのデュ・ジムナズ劇場でミラーの『転落の後に』を上演。 9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影』が出品され、金獅子賞を授賞。 10月 ローマのヴァレ劇場でチェーホフの『桜の園』を上演 11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』上演。 1966年3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『ファルスタッフ』(ジュゼッペ・ヴェルディ作曲)上演。 4月 ロンドンコヴェント・ガーデンで楽劇『ばらの騎士』(リヒャルト・シュトラウス作曲)上演。

映画『異邦人』[編集]

1967年2月 オムニバス映画『華やな魔女たち』(『疲れ切った魔女』エピソード担当)公開。

4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。 6月 フィレンツェのビッティ宮でゲーテの『エグモント』を上演。アルジェリアで『異邦人』を撮影する。 9月 映画『異邦人』公開。 10月 チェゼーナのポンチ劇場でテストーリの『モンツァの尼僧』を上演。 年末、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。 1969年2月 ミラノのサン・パビラ劇場ギンズブルグの『インセルツィオーネ』を上演。 3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『シモン・ボッカネグラ』を上演。 10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。

映画『ベニスに死す』[編集]

1970年『ベニスに死す』のタジオ役の少年を探して、デンマークスエーデンポーランドを旅行する。『失われた時をもとめて』のシナリオ完成。 6月「タジオを求めて」テレビ放映。 1971年3月、ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。 プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめ、ロケハンを行う。

映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』[編集]

1972年1月~4月 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のドイツ・オーストリアでロケを行う。 7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、血栓症の発作で倒れる。 9月、スイスチューリッヒの病院を退院し、コモ湖畔チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。 1973年1月、西ドイツのボンで、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のプレミア上映。

映画『家族の肖像』[編集]

1974年4月~7月にかけてデ・パリオス撮影所で映画『家族の肖像』を撮影する。 12月、映画『家族の肖像』公開。

遺作映画『イノセント』[編集]

1975年トーマス・マンの『魔の山』とダヌンツィオの『快楽』の映画化を企画するが、実現せず。 1975年4月 転倒して肩と大腿骨を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。 9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。 1976年1月 映画『イノセント』の撮影完了 3月17日、ローマのフレミング街101番地の自宅マンションで死去。 3月19日、聖イニャツイオ教会で葬儀が行われる。 5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映される。

フィルモグラフィ[編集]

フィルモグラフィ
公開年 タイトル 原題 主演
1942年 郵便配達は二度ベルを鳴らす OSSESSIINE マッシモ・ジロティ,クララ・カラマイ
1945年 栄光の日々 GIOENI DI GLOEIA ドキュメンタリ
1948年 揺れる大地 LA TERRA TREMA アントニオ・アルチディアコノ
1951年 ある三面記事についてのメモ Appunti su un fatto di cronaca ドキュメンタリ
1951年 ベリッシマ BELLISSIMA アンナ・マニャーニ
1953年 われら女性 SIAMO DONNE アンナ・マニャーニ
1954年 夏の嵐 SENSO アリダ・ヴァリ
1957年 白夜 Le notti bianche マルチェロ・マストロヤンニ
1960年 若者のすべて Rocco e i suoi fratelli アラン・ドロン
1962年 ボッカチオ'70 Boccaccio '70 ロミー・シュナイダー
1963年 山猫 gattopardo バート・ランカスター
1965年 熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'orsa クラウディア・カルディナーレ
1963年 第一話『疲れきった魔女』/華やかな魔女たち La strega bruciata viva シルヴァーナ・マンガーノ
1967年 異邦人 Lo Straniero マルチェロ・マストロヤンニ
1969年 地獄に堕ちた勇者ども The Damned ダーク・ボガード
1971年 ベニスに死す Death in Venice ダーク・ボガード
1972年 ルートヴィヒ Ludwig ヘルムート・バーガー
1974年 家族の肖像 Gruppo di famiglia in un interno バート・ランカスター
1976年 イノセント L'innocente ジャンカルロ・ジャンニーニ

参考文献[編集]

  1. 小出幸子川本晃(2006)『ルキーノ・ヴィスコンティ』エスクァイアマガジン ジャパン