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{{Otheruses|イングランドの劇作家、詩人}}
{{Infobox 作家
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[[ファイル:シェークスピアの肖像.jpg|thumb|1623年の『ファースト・フォリオ』にも付されたシェークスピアの肖像画]]
| name          = ウィリアム・シェイクスピア<br/>William Shakespeare
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'''シェイクスピア, ウィリアム'''(William Shakespeare, [[1564年]][[4月23日]]頃 - [[1616年]][[5月3日]])は、[[イングランド王国|イングランド]][[劇作家]]、[[詩人]]。1585年-1592年頃に[[ロンドン]]で演劇俳優・劇作家としての活動を始め、1613年頃に引退するまでに、『[[ハムレット]]』『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』『[[リア王]]』『[[ロミオとジュリエット]]』『[[ヴェニスの商人]]』『[[夏の夜の夢]]』『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』など、多くの戯曲作品を残した。『[[ヴィーナスとアドーニス]]』などの[[物語詩]]や、『[[ソネット集]]』などの詩作もある。またその著作は、[[初期近代英語]]を知るための[[言語学]]的資料ともなっている。
| image        = CHANDOS3.jpg
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| image_size    = 200px
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| caption      = <!--画像説明-->
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| pseudonym    = <!--ペンネーム-->
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| birth_name    = <!--出生名-->
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| birth_date    = [[1564年]]4月26日([[洗礼]]日)
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| resting_place = ストラトフォード・アポン・エイヴォン、{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}
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| occupation    = [[劇作家]]、[[詩人]]
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| language      = [[英語]]
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| nationality  = {{ENG927}}
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| alma_mater    = <!--出身校、最終学歴-->
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| period        = 1589年 - 1613年
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| genre        = <!--全執筆ジャンル-->
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| subject      = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
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| movement      = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動-->
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| religion      = <!--信仰する宗教-->
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| notable_works = 『ロミオとジュリエット』(1596年)<br />『ハムレット』(1601年)<br />『オセロー』(1604年)<br />『リア王』(1605年)<br />『マクベス』(1606年)
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| spouse        = [[アン・ハサウェイ (シェイクスピアの妻)|アン・ハサウェイ]]
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| children      = [[スザンナ・ホール]](長女)<br />ハムネット・シェイクスピア(長男)<br />ジュディス・クワイニー(次女)<br />ウィリアム・ダヴェナント(次男?、落胤?)<ref>[[1606年]][[3月3日]]生 - [[1668年]][[4月7日]]没。享年62。[[17世紀]]の詩人、劇作家。オックスフォードシャー州オックスフォード生まれ。シェイクスピアが名付け親となった。父親はクラウン亭という宿屋を経営していて,シェイクスピアはロンドンとストラトフォードを往復する途中でよく立ち寄っていた.そのため,彼はシェイクスピアの私生児だという噂が広まった。[[1628年]]に舞台用の戯曲を書く仕事を始め、「知恵者」([[1636年]])が代表作。[[1638年]]に桂冠詩人となり、のちにドルリー・レーン劇場の支配人となった。[[1643年]]に[[清教徒革命]]で国王側について戦った功績により、ナイト爵を授けられている。[[1656年]]になると,[[クロムウェル]]政権下で禁じられていた演劇を再上演するのに尽力し、イギリスで初めて大衆向けオペラを上演。『マクベス』の改作などを執筆した。</ref>
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| relations    = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->
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| influences    = <!--影響を受けた作家名-->
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| influenced    = <!--影響を与えた作家名-->
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| debut_works  = [[ヘンリー六世 第1部]]
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| signature    = William Shakespeare Signature.svg
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'''ウィリアム・シェイクスピア'''({{lang-en|William Shakespeare}}, [[1564年]][[4月26日]][[洗礼]]日) - [[1616年]][[4月23日]]([[グレゴリオ暦]][[5月3日]]))は、[[イングランド王国|イングランド]][[劇作家]]、[[詩人]]であり、[[イギリス・ルネサンス演劇]]を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた[[英文学]]の作家とも言われている。また彼の残した膨大な著作は、[[初期近代英語]]の実態を知る上での貴重な[[言語学]]的資料ともなっている。
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出生地は[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]で、[[1585年]]前後に[[ロンドン]]に進出し、[[1592年]]には新進の劇作家として活躍した。[[1612年]]ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇「[[ハムレット]]」、「[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]」、「[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]」、「[[リア王]]」をはじめ、「[[ロミオとジュリエット]]」、「[[ヴェニスの商人]]」、「[[夏の夜の夢]]」、「[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]」など多くの傑作を残した。「[[ヴィーナスとアドーニス]]」のような[[物語詩]]もあり、特に「[[ソネット集]]」は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。
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== 経歴 ==
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=== 生い立ち ===
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1564年4月23日頃<ref>誕生日を直接示す史料が存在するわけではないが、1564年4月26日に洗礼を受けており、エリザベス朝時代には出生証明書が発行されておらず、洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったことから、伝統的に誕生日は4月23日とされてきた。4月23日は[[ゲオルギオスの日|聖ジョージの日]]にあたり、またシェイクスピアの死没年月日が1616年の4月23日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では5月3日)とされていたことからも、この推定が支持されてきた。</ref>、イングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォン([[:wiki:en:Stratford-upon-Avon|Stratford-upon-Avon]])で、父ジョン・シェイクスピアと母メアリー・アーデンの間に8人きょうだいの3番目の子として生まれる。父・ジョンはスニッターフィールド([[:wiki:en:Snitterfield|Snitterfield]])出身の皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員、母・メアリーは、[[ジェントルマン]]の娘だった。両親とも[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の信者だったと推測されている。
  
[[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人]]」投票で第5位となった。
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学歴は不明で、ストラトフォードの中心にあった文法学校(後のエドワード6世校 [[:wiki:King Edward VI School Stratford-upon-Avon|King Edward VI School Stratford-upon-Avon]])に通っていたと推定されているが、在籍を示す確証はない<ref>同校は、ローマ・カトリック教会の関与の下、15世紀初頭に開校され、1482年にストラトフォードに寄贈された。同校の学籍簿は散逸しており、シェイクスピアの在籍を裏付ける史料は確認されていない。地元の男子は無料で入学でき、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうとの推測から、同校に通学していたことが推定されている。同校では[[ラテン語]]文法や文学の集中学習が行なわれており、ラテン語の習熟に役立てるため、講義の一環として学生たちがラテン語劇を演じていた。(Greenblatt,2004,pp.25-28)また、シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』に[[プラウトゥス]]の戯曲『メナエクムス兄弟』 (''[[:wiki:Menaechmi|The Two Menaechmuses]]'') との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つとされている(Park,1999,p.43)。</ref>。
  
「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国での表記「莎士比亞」([[繁体字]]での表記で、[[簡体字]]では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。「'''[[沙翁]]'''」と呼ばれることもある。
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父・ジョンはウィリアムの生まれた頃には裕福であったが、羊毛の闇市場に関わったとして起訴され、市長職を失った。ウィリアムは家庭が没落したため学校を中退したという説もあるが、前記のとおり在籍自体確かではなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である<ref>Greenblatt,2004,pp.25-28</ref>。
  
== 生涯 ==
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1582年11月29日、18歳のとき、アン・ハサウェイ(当時26歳で、妊娠3ヶ月だった)と結婚<ref>アンはショッタリー [[:wiki:en:Shottery|Shottery]]の出身であるが、ある公文書においてストラトフォードにも近いテンプル・グラフトン [[:wiki:en:Temple Grafton|Temple Grafton]]の人と記されていることから、同地で結婚式が行なわれた可能性が高いと推測されている。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。</ref>。翌1583年5月頃に長女・スザンナ、1585年1-2月頃に長男ハムネットと次女ジュディスの双子をもうけている<ref>長女・スザンナの洗礼式は1583年5月26日、長男ハムネットと次女ジュディスの洗礼式は1585年2月2日に行われた。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた</ref>。
本節ではシェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については次節を参照。
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=== 失われた年月 ===
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1585年に双子が生まれた後、1592年に[[ロンドン]]の劇壇に名を現わすまでの間、どこで何をしていたのか、また何故ストラトフォードからロンドンへ移ったのかは不明で、研究者から「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれている<ref>Honigmann(1999)p.1, Gray(1998)</ref>。
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*ホニグマン([[:wiki:en:E. A. J. Honigmann|Honigmann]],1985)は、[[ランカシャー]]のホートン家の人物が記した遺言書にある「ウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft)」という人物への言及に基づき、シェイクスピアが同地で教職についていたという説を提唱している<ref>遺言書には、戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) の面倒を見てやってほしい」という親族への要請があり、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンがランカシャーの生まれであったことから、「ウィリアム・シェイクシャフト」とはシェイクスピアのことであり、コットンがホートン家にシェイクスピアを教師として推薦したと主張した。ウッド(Wood,2003,p80)は、ホニグマンの説について、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことを付け加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。</ref>。
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*他に、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているが、いずれも死後に広まった噂とみられている。
  
=== 前半生 ===
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=== ロンドンの劇壇進出 ===
[[ファイル:Stratford Birthplace2.jpg|thumb|250px|[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]にある[[シェイクスピアの生家]]]]
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[[1592年]]頃には、劇場や劇団が次々と設立されていたロンドンで、演劇俳優として活動しながら、脚本を執筆。1590年-1592年の史劇『[[ヘンリー六世 (シェイクスピア)|ヘンリー六世]]』三部作を皮切りに、『[[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]]』『[[間違いの喜劇]]』『[[じゃじゃ馬ならし]]』『[[タイタス・アンドロニカス]]』など、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される作品を発表した(出典?)。
[[ファイル:pcs34560_IMG2079.JPG|thumb|200px|シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、[[アン・ハサウェイのコテージ|妻アンの実家]]]]
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*フィリップ・ヘンズロウ([[:wiki:en:Philip Henslowe|Philip Henslowe]])の日記には、『[[ヘンリー六世 第1部]]』と思われる戯曲が、1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っている。
ウィリアム・シェイクスピアは[[1564年]][[イングランド王国]][[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]に生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母[[メアリー・アーデン]][[ジェントルマン]]の娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は[[1557年]]ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、[[1564年]]4月26日に[[洗礼]]を受けたことが記録されている。
+
*劇作家[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]の1592年の著書『三文の知恵』(''Greene's Groatsworth of Wit'')には、シェイクスピアを評したとみられる記述がある<ref>「<ins>役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の</ins>、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァース [[:wiki:en:Blank verse|Blank verse]]を自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」との記述がある。シェイクスピアの名前は出てこないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公の台詞「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」(''O tiger's heart wrapt in a woman's hide!'')をもじっていることや、「舞台を揺るがす者」(''Shake-scene'')の表現がシェイクスピアの名を連想させることから、シェイクスピアに言及したものとみられている</ref>。
  
[[エリザベス朝]]時代には出生証明書が発行されていなかったので、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠にもとづいているわけではない。この日は[[聖人暦]]においてイングランドの[[守護聖人]]である[[ゲオルギオス (聖人)|聖ゲオルギオス(聖ジョージ)]]を記念する[[ゲオルギオスの日|聖ジョージの日]]にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは[[1616年]]の4月23日([[グレゴリオ暦]]では[[5月3日]])に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。
+
1594年末頃には、俳優兼劇作家であると同時に劇団「宮内大臣一座」<ref>当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。</ref>の共同所有者となり、同劇団が本拠地としていた劇場・[[グローブ座]]の共同株主にもなっていた。
  
シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である<ref>[http://shakespeare.palomar.edu/timeline/genealogy.htm A Shakespeare Genealogy]</ref>。
+
[[ペスト]]の流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作を行い、『[[ヴィーナスとアドーニス]]』(1593年)や『[[ルークリース陵辱]]』(1594年)などを刊行した。1609年に刊行された『[[ソネット集]]』もこの時期に執筆されたと推定されている。
  
シェイクスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家とも[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の信者であった可能性が推測されている。
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=== 中期 ===
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[[1595年]]の悲劇『[[ロミオとジュリエット]]』以後、『[[夏の夜の夢]]』『[[ヴェニスの商人]]』『空騒ぎ』『[[お気に召すまま]]』『[[十二夜]]』などの喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『[[ヘンリー四世 (シェイクスピア)|ヘンリー四世]]』二部作などの史劇には登場人物[[フォルスタッフ]]を中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていった(出典?)。
  
シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、[[エドワード6世校]] ([[:en:King Edward VI School Stratford-upon-Avon|King Edward VI School Stratford-upon-Avon]]) に通ったであろうと推定されている<ref name=Greenblatt>Stephen Greenblatt, ''"Will in the World"'' Quebecor World, Fairfield; United States, 2004, pp. 25 - 28</ref>
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1596年に、[[紋章院]]に申請をして、シェイクスピア家の[[紋章]]を取得<ref>父・ジョンは、まだ裕福だった頃に、紋章取得を[[紋章院]]に嘆願していたが取得できておらず、シェイクスピアにとって紋章の取得は宿願だった、とみられている。シェイクスピアは高等教育を受けていなかったとみられ、また俳優は当時いかがわしい職業とされていたが、経済的に大きな成功を収めていたため、紋章が取得できたとみられている。紋章に記された銘は、シェイクスピア自身が考案したもので、“Non sanz droict” (フランス語で「権利なからざるべし」)と記されている。Greenblatt(2004)は、この銘文は、ある種の守勢や不安感を示しており、社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようだ、としている。</ref>。同年、ビショップスゲート([[:wiki:en:Bishopsgate|Bishopsgate]])のセント・ヘレン([[:wiki:en:St Helen's Church, Bishopsgate|St Helen's Church]])教区へ転居。同年、長男ハムネットが死去し、8月11日に葬儀が行なわれている。
校名に冠されている[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]と学校の設立の起源になんら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている<ref name=Greenblatt/>。
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エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校は[[ラテン語]]文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである<ref name=Greenblatt/>。
+
  
シェイクスピアの最初期の戯曲『[[間違いの喜劇]]』に[[プラウトゥス]]の戯曲『[[メナエクムス兄弟]]』 (''"[[:en:Menaechmi|The Two Menaechmuses]]"'') との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される<ref>Honan, Park. ''Shakespeare: A Life''. Oxford: Oxford University Press, 1999, p. 43.</ref>根拠の一つである。[[1482年]]にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である<ref name=Greenblatt/>
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[[1598年]]にグローブ座で初演された[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]の『十人十色』(''[[:en:Every Man in His Humour|Every Man in His Humour]]'')では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されている。またシェイクスピアの[[四折判]]では、1598年刊の『[[恋の骨折り損]]』で、初めてタイトル・ページに著者名が記された<ref>それ以前の作品は著者名が記されていないか、もしくは1623年の『ファースト・フォリオ』に収録されるまで未刊のままだった。</ref>。このため、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していたとみられている(出典?)。
  
[[1582年]]11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性[[アン・ハサウェイ (シェイクスピアの妻)|アン・ハサウェイ]]と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている(実際には[[ショッタリー]]出身)ので、結婚式がそこで行なわれた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。
+
=== 後期 ===
 +
1599年に、ロンドン郊外のサザ-ク([[:wiki:en:Southwark|Southwark]])へ転居したと見られている。
  
[[1583年]]5月26日、ストラトフォードで長女[[スザンナ・ホール|スザンナ]]の洗礼式が執り行なわれた。[[1585年]]には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた。ハムネットは[[1596年]]に夭折し、8月11日に葬儀が行なわれた。
+
同年、『ジュリアス・シーザー』を発表。後期の作品では、軽やかさが影をひそめ、1600年代初頭の'''四大悲劇'''といわれる『[[ハムレット]]』『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』『[[リア王]]』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『[[終わりよければ全てよし]]』『[[尺には尺を]]』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「[[問題劇]]」と呼ばれている。(出典?)
  
結婚後、[[ロンドン]]の劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年から[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]による言及のある[[1592年]](後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる<ref>E. A. J. Honigmann, ''"Shakespeare: The Lost Years"'' Manchester University Press; 2nd edition, 1999, p. 1.</ref>。
+
1603年に[[エリザベス1世]]が死去して[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が即位した際、ジェームズ1世が自ら庇護者となることを約束し、劇団「宮内大臣一座」は「国王一座」に改称した。
この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているがいずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である<ref name=Timeline>[http://shakespeare.palomar.edu/timeline/lostyears.htm "The Lost Years"], Shakespeare Timeline.</ref>。
+
  
シェイクスピアが[[ランカシャー]]で教職についていたという説は、[[1985年]]にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ホートン家の人物が記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) 」の面倒を見てやってほしいという親族への要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである<ref name=Timeline/>。
+
この頃、「国王一座」の上演劇の脚本執筆や劇団経営の傍ら、俳優業も継続し、『[[ハムレット]]』の先王の幽霊や、『[[お気に召すまま]]』のアダム、『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』のコーラスなどを演じたといわれる(出典?)。
ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれでホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している<ref name=Timeline/><ref>David Aaron Murray, [http://www.crisismagazine.com/april2005/book2.htm ''"In Search of Shakespeare"''], Crisis Magazine</ref>。
+
マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアの[[グローブ座]]株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている<ref>Michael Wood, ''"In Search of Shakespeare"''  BBC Books, 2003, ISBN 0-563-52141-4 p.80</ref>。
+
  
=== ロンドンの劇壇進出 ===
+
=== 晩期 ===
[[ファイル:Shakespeare Globe Theater 1 db.jpg|thumb|200px|left|ロンドンに復元された[[グローブ座]]]]
+
[[アントニーとクレオパトラ]]』『[[アテネのタイモン]]』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「[[ロマンス劇]]」と呼ばれる。『[[ペリクリーズ]]』『[[シンベリン]]』『[[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]]』『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。
[[1592年]]ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、[[エリザベス朝演劇]]の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。[[1592年]]には[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]が著書『三文の知恵』 (''"Greene's Groatsworth of Wit"'') において、「<ins>役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の</ins>、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れた[[ブランク・ヴァース]]を自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでにかちえていたことが知られている(グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『[[ヘンリー六世 第3部]]』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」 ("Shake-scene") がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはほぼ間違いないとされる)。
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[[1594年]]の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、[[宮内大臣一座]]として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場[[グローブ座]]の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。[[1603年]]に[[エリザベス1世]]が死去して[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が即位したさい、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため[[国王一座]]へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている<ref> William Allan Neilson and Ashley Horace Thorndike, ''"The Facts About Shakespeare"'', The Macmillan Company, 1913.</ref>。
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[[ファイル:Shakespeare1COA.png|180px|thumb|シェイクスピア家の紋章]]
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高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころシェイクスピアの父は[[紋章]]を取得するために[[紋章院]]へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優(当時はいかがわしい職業であった)のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。[[1596年]]に再び申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は “Non sanz droict” (フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである<ref>Stephen Greenblatt, ''"Will in the World"'', Quebecor World, Fairfield, United States, 2004.</ref>。
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[[1596年]]にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。[[1598年]]にグローブ座で初演された[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]の『[[十人十色 (演劇)|十人十色]]』 (''"[[:en:Every Man in His Humour|Every Man in His Humour]]"'') では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの[[四折判]]のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる<ref>1598年刊の『[[恋の骨折り損]]』において、初めて著者名が明記された。それ以前の作品は著者名が記されていなかったか、もしくは[[1623年]]の[[ファースト・フォリオ]]に収録されるまで未刊のままだった。</ref>。
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シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『[[ハムレット]]』の先王の幽霊や、『[[お気に召すまま]]』のアダム、『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』のコーラスなどを演じたといわれる<ref>[http://www.enotes.com/william-shakespeare/shakespeares-globe-theater e-notes.com on Shakespeare's Globe Theatre], Shakespeare at e-notes.</ref><ref>[http://www.zeenews.com/articles.asp?aid=367150&sid=ZNS Article on Shakespeare's Globe Theater] Zee News on Shakespeare, accessed Jan. 23, 2007.</ref>。
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シェイクスピアは[[1599年]]内に[[テムズ川]]を渡ってサザックへ転居したと見られる。[[1604年]]には家主の娘の仲人をつとめた。この娘の結婚が原因で[[1612年]]に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアは[[ユグノー]]の髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年たっても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。
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法的問題や商取引についてのさまざまな公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンの[[ブラックフライヤーズ]]の不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅[[ニュー・プレイス]]を購入するまでになっていたことが分かる。
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1604年には家主の娘の仲人を務めており、1612年にこの娘の結婚時の持参金を巡る裁判に証人として出廷している<ref>(出典?)裁判記録によると、1604年にシェイクスピアは[[ユグノー]]の髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いだったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細についての交渉をシェイクスピアに依頼した。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こした。シェイクスピアは、この裁判の証人として召喚されたが、当時の状況をほとんど覚えていなかった。</ref>。
  
 
=== 晩年 ===
 
=== 晩年 ===
[[ファイル:Nash_House_Stratford.jpg|thumb|250px|引退後のシェイクスピアの終の棲家となった[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]にあるニュー・プレイス]]
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(いつ?)法的問題や商取引についての様々な公文書から、ロンドンのブラックフライヤーズ([[:wiki:en:Blackfriars, London|Blackfriars]])の不動産や、ストラトフォードの邸宅ニュー・プレイス([[:wiki:en:New Place|New Place]])を購入していたことが分かっている(出典?)。
シェイクスピアは[[1613年]]に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている<ref>Jonnie Patricia Mobley, William Shakespeare, ''"Manual for Hamlet: Access to Shakespeare"'', Lorenz Educational Publishers, 1996, p. 5.</ref>。
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シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「[[婚前交渉]]」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が[[私生児]]を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。
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[[1613年]]に引退した後は、故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンに帰り、ニュー・プレイスで暮らしたとみられている<ref>Mobley,1996,p.5</ref>。
  
=== ===
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=== 死去 ===
[[1616年]]4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐りきった[[ニシン]]から伝染した感染症であるらしいが、詳細は不明である。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。
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生涯最後の数週間に、次女ジュディスの婚約者で居酒屋経営者のトマス・クワイニーが[[婚前交渉]]の嫌疑により地元の教会裁判所に告発され、告発相手が死亡する事件が発生した<ref>マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張して、間もなく母子ともに死亡した。</ref>。シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正している(出典?)。
  
== 死後 ==
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1616年の[[ユリウス暦]]4月23日([[グレゴリオ暦]]5月3日)に52歳で死去。
シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは[[1596年]]に夭折している。スザンナは医師の[[ジョン・ホール (医師)|ジョン・ホール]]と結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日<!-- 新しく生まれることはないので、この場合は古くなる表現ではないと思う -->、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になった[[ウィリアム・ダヴェナント]](17世紀の詩人、劇作家。『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』の改作などを執筆している)の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことはある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント([[1656年]] - [[1714年]]、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント([[1657年]] - [[1681年]])という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実なら、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも[[18世紀]]の初めまで存続したことになる。
+
*死因は腐敗した[[ニシン]]から感染した感染症であったらしいが、詳細は不明である(出典?)。
  
=== 埋葬 ===
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遺骸はストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会([[:wiki:en:Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|Church of the Holy Trinity]])の内陣に埋葬された<ref>Holderness(2001,pp.152-154)は、シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの[[十分の一税]]を教会に納めていた高額納税者であったためであり、シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと推測している。シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアが執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年4月23日には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる(出典?)。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。''Good friend, for Jesus' sake forbear,/ To dig the dust enclosed here./ Blest be the man that spares these stones,/ And cursed be he that moves my bones.'' 副葬品として未発表作品が墓の中に納められているという伝説があるが、確かめた者はいない(出典?)</ref>
[[ファイル:Stratford Holy Trinity Church3.jpg|thumb|250px|left|ストラトフォードの{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}に建立されたシェイクスピアの墓碑]]
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シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにある{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの[[十分の一税]]を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる<ref>Graham Holderness, ''"Cultural Shakespeare: Essays in the Shakespeare Myth"'' University of Hertfordshire Press, 2001, pp. 152-54.</ref>シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。
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{{cquote|Good friend, for Jesus' sake forbear,<br />
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=== 最初の全集刊行 ===
To dig the dust enclosed here.<br />
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没後7年を経た[[1623年]]に、国王一座の同僚であった[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集『[[ファースト・フォリオ]]』が刊行された。
Blest be the man that spares these stones,<br />
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And cursed be he that moves my bones.''}}
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シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
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== 家族 ==
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シェイクスピアには息子1人と娘2人があり、孫が4人いたが、曾孫はなく、直径の子孫は孫娘エリザベス・ホール(1670年2月17日に死去)で絶えている。
  
== 家族 ==
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またシェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント<ref>17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している。</ref>の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがあり、ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称していた。ダヴェナントにはチャールズ(1656年 - 1714年)とウィリアム(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの子だったとすれば、シェイクスピアの血筋は[[18世紀]]初めまで続いたことになる(出典?)。
*父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)
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*母方の祖父:ロベルト・アーデン
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*父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)
 
*父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)
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**父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)
 
*母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)
 
*母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)
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**母方の祖父:ロベルト・アーデン
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*きょうだい
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**長兄 ジョン(1558年)
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**長姉 マーガレット(1562年 - 1563年)
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**長弟 ギルバート(1566年10月13日 - 1612年2月3日)
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**長妹 ジョーン(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - ウィリアム・ハートと結婚して、3男1女をもうけた(シェイクスピアの甥、姪にあたる)
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***甥 ウィリアム(1600年 - 1639年)
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***姪 メアリー(1603年 - 1607年)
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***甥 トマス(1605年 - 1661年)
 +
***甥 ミカエル(1608年 - 1618年)
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**次妹 アン(1571年 - 1579年)
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**次弟 リチャード(1574年 - 1613年)
 +
**三弟 エドモンド(1580年 - 1607年12月31日)
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*妻 アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日)
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**長女 スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日)
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***娘婿 ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - スザンナの夫。医師。
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***孫 エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - スザンナとジョン・ホールの娘。
 +
****孫婿 トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。
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****孫婿 ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。
 +
**長男 ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 1596年に11歳で夭折。ジュディスとは双子。
 +
**次女 ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - ハムネットとは双子。
 +
***娘婿 トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - ジュディスの夫。居酒屋経営者。
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***孫 シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 長男。1歳になる前に死去。
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***孫 リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日)- 次男。20歳で死去。
 +
***孫 トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日)- 三男。19歳で死去。
  
*兄弟姉妹
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=== 姓 ===
**ジョン・シェイクスピア(1558年)- 長兄
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「シェイクスピア」の姓について、精神学者でシェイクスピアのファンだった[[ジークムント・フロイト]]は、イギリス人らしくない名前や、チャンドスの肖像画([[:wiki:en:Chandos portrait|Chandos portrait]])から、シェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとした<ref>Jones(1961)p16, Shapiro(2010)pp.14–15</ref>。
**マーガレット・シェイクスピア(1562年 - 1563年) - 長姉
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**ギルバート・シェイクスピア(1566年10月13日 - 1612年2月3日) - 長弟
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**ジョーン・シェイクスピア(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - 長妹
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**アン・シェイクスピア(1571年 - 1579年) - 次妹
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**リチャード・シェイクスピア(1574年 - 1613年) - 次弟
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**エドモンド・シェイクスピア(1580年 - 1607年12月31日) - 三弟
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*甥、姪 - 長妹ジョーンがウィリアム・ハートと結婚して、3男1女がおり、シェイクスピアからみて甥、姪にあたる。
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**ウィリアム(1600年 - 1639年)
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**メアリー(1603年 - 1607年)
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**トマス(1605年 - 1661年)
+
**ミカエル(1608年 - 1618年)
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*妻と子女
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**アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日) - 妻
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***スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日) - 長女。医師のジョン・ホールと結婚し、エリザベス・ホールを儲ける。
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***ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 長男。11歳で夭折。ジュディスとは双子。
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***ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - 次女。ハムネットは双子。居酒屋経営者のトマス・クワイニーと結婚し、3子(下記)を儲ける。
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*娘婿
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**ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - 長女スザンナの夫。スザンナとの間にエリザベス・ホールを儲ける。
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**トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - 次女ジュディスの夫。ジュディスとの間にシェイクスピア、リチャード、トマスの3子(下記)を儲ける。
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*孫
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**エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - 長女スザンナとその夫ジョンの娘。
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**シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 次女ジュディスとその夫トマスの長男。1歳になる前に夭折。
+
**リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日)- 次女ジュディスとその夫トマスの次男。20歳で死去。
+
**トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日)- 次女ジュディスとその夫トマスの三男。 19歳で死去。
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*孫婿
+
**トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。
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**ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。
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*曾孫
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**孫4人は子を成すことが無かったため、エリザベスの死でシェイクスピアの直系子孫は断絶している。
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;シェイクスピア姓
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:精神学者でシェイクスピアファンの[[ジークムント・フロイト]]は、イギリス人ではないような名前に疑念を抱き、{{仮リンク|チャンドス肖像画|en|Chandos portrait}}を見てより疑念を深めた。フロイトはシェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとみている<ref>Jones, Ernest (1961). The life and work of Sigmund Freud vol. 1. Basic Books. p16</ref><ref>Shapiro (2), James (26 March 2010). "Forgery on Forgery". Times Literary Supplement (5581). pp. 14–15.英語版 p185 </ref>。
+
 
+
== 最初の全集の刊行 ==
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没後7年を経た[[1623年]]、国王一座の同僚であった[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集[[ファースト・フォリオ]]が刊行された。
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== 作品 ==
 
== 作品 ==
[[ファイル:First Folio.jpg|thumb|200px|最初の全集[[ファースト・フォリオ]](1623年)に掲載された肖像画]]
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以下、作品の推定執筆年代は、リバーサイド版シェイクスピア全集([[:wiki:en:Riverside Shakespeare|Riverside Shakespeare]])による。
{{main|シェイクスピアの戯曲}}
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=== 戯曲 ===
 +
1623年に刊行された最初の著作集『ファースト・フォリオ』において、シェイクスピアの戯曲作品は悲劇・史劇・喜劇という3区分に分類された<ref>Craig,2003,p.3</ref>。
  
シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中で最も優れた文学作品として評価されている。[[1623年]]に[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によって編纂された[[ファースト・フォリオ]]において、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、そのすべてが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている<ref>Leon Harold Craig, ''Of Philosophers and Kings: Political Philosophy in Shakespeare's "Macbeth" and "King Lear"'' University of Toronto Press, 2003, p. 3.</ref>。
+
しかし、喜劇に分類された作品の中には、喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な問題を提起するかのような作品も存在する。このため、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし「悲喜劇」の用語を与えた。また後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。以下で、Rは「ロマンス劇」、Pは「問題劇」と分類されることもある作品を表わす。
  
当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『[[ハムレット]]』([[1601年]]ごろ)は現存していない先行作品(『[[原ハムレット]]』と呼ばれる)を改作したものであることや、『[[リア王]]』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている<ref>G. K. Hunter, ''"English Drama 1586-1642: The Age of Shakespeare"''. Oxford: Clarendon Press, 1997, 494-496.</ref>
+
==== 悲劇 ====
また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、[[古代ローマ]]や[[古代ギリシア]]を舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料として主に用いたテキストは2つある。前者の材源は[[プルタルコス]]の『英雄伝』(トマス・ノース ([[:en:Thomas North|Thomas North]]) による[[1579年]]の英語訳<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/JC/plutarch.north.html Plutarch's Parallel Lives]</ref>)であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』(''"The Chronicles of England, Scotland, and Ireland"''、[[1587年]]の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』や『[[リア王]]』の素材ともなっている<ref>Richard Dutton, Jean Howard ed., ''"A Companion to Shakespeare's Works: The Histories"'', Blackwell Publishing, 2003, p. 147.)</ref>。
+
* [[タイタス・アンドロニカス]](''Titus Andronicus''、1593年 - 1594年)
またシェイクスピアは同時代の劇作家(シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた)[[クリストファー・マーロウ]]の文体を借用していると考えられることもある<ref>Brian Robert Morris, ''"Christopher Marlowe"''. 1968, pp. 65-94. ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、マーロウの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えたと述べている。しかしゲイリー・テイラーは ''"William Shakespeare: A Textual Companion"'' p. 116. において、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論している。</ref>。
+
* [[ロミオとジュリエット]](''Romeo and Juliet''、1595年 - 1596年)
シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』である<ref>Patrick Murphy, ''"The Tempest: Critical Essays"'', Routledge, 2001.</ref>。
+
* [[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]](''Julius Caesar''、1599年)
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* [[ハムレット]]''Hamlet''、1600年 - 1601年)
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* [[トロイラスとクレシダ]](''Troilus and Cressida''、1601年 - 1602年)<sup>P</sup>
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* [[オセロ (シェイクスピア)|オセロー]](''Othello''、1604年)
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* [[リア王]]''King Lear''、1605年)
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* [[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]](''Macbeth''、1606年)
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* [[アントニーとクレオパトラ]]''Antony and Cleopatra''、1606年 - 1607年)
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* [[コリオレイナス]]''Coriolanus''、1607年 - 1608年)
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* [[アテネのタイモン]]''Timon of Athens''、1607年 - 1608年)
  
シェイクスピアの戯曲のいくつかは[[四折判]]の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「[[問題劇]]」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。
 
 
シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する[[本文批評]]が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる<ref>Richard Dutton, "The Birth of the Author," in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, ''"Texts and Cultural Change in Early Modern England"'' (London: Macmillan, 1997): p. 161.</ref>。
 
こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる<ref>Fredson Bowers, ''"On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists"''. Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, p.8-10.</ref>。
 
 
一つの作品について極端に異なる二つのヴァージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる<ref>Alfred W. Pollard, ''"Shakespeare Quartos and Folios"''. London: Metheun, 1909, xi.</ref>。それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のヴァージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、[[マドレーン・ドーラン]]([[:en:Madeleine Doran|Madeleine Doran]])以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのヴァージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 ''"The Division of the Kingdom"'' において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している<ref>Gary Taylor and Michael Warren, ''"The Division of the Kingdoms"''. Oxford: Clarendon Press. 1983.</ref>。
 
この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版と[[オックスフォード版シェイクスピア全集|オックスフォード版]]の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。
 
 
=== 作風・執筆歴 ===
 
シェイクスピアの劇作家としての活動は[[1592年]]頃から始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『[[ヘンリー六世 第1部]]』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年には[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]の著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。
 
 
最初期の史劇『[[ヘンリー六世 (シェイクスピア)|ヘンリー六世]]』三部作(1590-92年)を皮切りに、『[[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]]』『[[間違いの喜劇]]』『[[じゃじゃ馬ならし]]』『[[タイタス・アンドロニカス]]』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。
 
 
ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『[[ヴィーナスとアドーニス]]』([[1593年]])や『[[ルークリース陵辱]]』([[1594年]])などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『[[ソネット集]]』もこの時期に執筆されたと推定されている。[[1595年]]の悲劇『[[ロミオとジュリエット]]』以後、『[[夏の夜の夢]]』『[[ヴェニスの商人]]』『空騒ぎ』『[[お気に召すまま]]』『[[十二夜]]』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『[[ヘンリー四世 (シェイクスピア)|ヘンリー四世]]』二部作などの史劇には登場人物[[フォルスタッフ]]を中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。
 
 
[[1599年]]に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この頃から次第に軽やかさが影をひそめていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の'''四大悲劇'''といわれる『[[ハムレット]]』『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』『[[リア王]]』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『[[終わりよければ全てよし]]』『[[尺には尺を]]』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「[[問題劇]]」と呼ばれている。
 
 
『[[アントニーとクレオパトラ]]』『[[アテネのタイモン]]』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「[[ロマンス劇]]」と呼ばれる。『[[ペリクリーズ]]』『[[シンベリン]]』『[[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]]』『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。
 
 
シェイクスピアは[[弱強五歩格]]という[[韻律 (韻文)|韻律]]を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように[[散文]]の比率が高い戯曲もある。
 
 
== 書誌 ==
 
推定執筆年代は、[[リヴァサイド版シェイクスピア全集|リヴァサイド版全集]]による。
 
=== 戯曲 ===
 
 
==== 史劇 ====
 
==== 史劇 ====
 
* [[ヘンリー六世 第1部]](''Henry VI, Part 1''、1589年 - 1590年)
 
* [[ヘンリー六世 第1部]](''Henry VI, Part 1''、1589年 - 1590年)
204行目: 129行目:
 
* [[ヘンリー四世 第2部]](''Henry IV, Part 2''、1598年)
 
* [[ヘンリー四世 第2部]](''Henry IV, Part 2''、1598年)
 
* [[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]](''Henry V''、1599年)
 
* [[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]](''Henry V''、1599年)
* [[ヘンリー八世 (シェイクスピア)|ヘンリー八世]](''Henry VIII''、1612 - 1613年)
+
* [[ヘンリー八世 (シェイクスピア)|ヘンリー八世]](''Henry VIII''、1612年 - 1613年)
 
+
==== 悲劇 ====
+
* [[タイタス・アンドロニカス]](''Titus Andronicus''、1593 - 94年)
+
* [[ロミオとジュリエット]](''Romeo and Juliet''、1595 - 96年)
+
* [[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]](''Julius Caesar''、1599年)
+
* [[ハムレット]](''Hamlet''、1600 - 01年)
+
* [[トロイラスとクレシダ]](''Troilus and Cressida''、1601 - 02年)<sup>P</sup>
+
* [[オセロ (シェイクスピア)|オセロー]](''Othello''、1604年)
+
* [[リア王]](''King Lear''、1605年)
+
* [[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]](''Macbeth''、1606年)
+
* [[アントニーとクレオパトラ]](''Antony and Cleopatra''、1606年 - 1607年)
+
* [[コリオレイナス]](''Coriolanus''、1607年 - 1608年)
+
* [[アテネのタイモン]](''Timon of Athens''、1607年 - 1608年)
+
  
 
==== 喜劇 ====
 
==== 喜劇 ====
238行目: 150行目:
 
* [[二人のいとこの貴公子]](''The Two Noble Kinsmen''、1613年)<sup>R</sup>
 
* [[二人のいとこの貴公子]](''The Two Noble Kinsmen''、1613年)<sup>R</sup>
  
Rは[[ロマンス劇]]、Pは[[問題劇]]ともカテゴライズされる作品である。
+
=== ===
 
+
=== 詩作品 ===
+
 
* [[ソネット集]](''The Sonnets'')
 
* [[ソネット集]](''The Sonnets'')
 
* [[ヴィーナスとアドーニス]](''Venus and Adonis'')
 
* [[ヴィーナスとアドーニス]](''Venus and Adonis'')
249行目: 159行目:
  
 
=== 外典と散逸した戯曲 ===
 
=== 外典と散逸した戯曲 ===
{{main|シェイクスピア外典}}
 
 
* [[エドワード三世 (戯曲)|エドワード三世]](''Edward III''、1596年)
 
* [[エドワード三世 (戯曲)|エドワード三世]](''Edward III''、1596年)
 
* [[カルデーニオ]](''Cardenio'')
 
* [[カルデーニオ]](''Cardenio'')
255行目: 164行目:
 
* ほか
 
* ほか
  
== シェイクスピア別人説 ==
+
=== 材源と作風 ===
{{main|シェイクスピア別人説}}
+
シェイクスピアの戯曲には、他の劇作家の作品に依拠している作品や、古い説話や史料などを材源とした作品が多い。
シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかと主張する人や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかと主張する者もいる。真の作者として推定された人物には哲学者[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]や第17代オックスフォード伯[[エドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)|エドワード・ド・ヴィアー]]、同年生れの劇作家[[クリストファー・マーロウ]]、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官[[w:Henry Neville (politician)|ヘンリー・ネヴィル]]などがいる。
+
*例えば、『ハムレット』(1601年ごろ)は、現存しない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであること、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが指摘されている<ref>Hunter,1997,pp.494-496.</ref>。
 +
*史劇作品は、[[古代ローマ]][[古代ギリシア]]を舞台とした作品と近世イングランドを舞台とした作品に大別されるが、前者の材源として[[プルタルコス]]の『英雄伝』(トマス・ノース [[:wiki:en:Thomas North|Thomas North]]による1579年の英語訳)、後者の材源としてラファエル・ホリンシェッド [[:wiki:en:Raphael Holinshed|Raphael Holinshed]]の『年代記』(''The Chronicles of England, Scotland, and Ireland''、1587年の第2版)の存在が指摘されている。『年代記』は史劇だけでなく、『マクベス』や『リア王』の素材にもなっている。<ref>Dutton & Howard,2003,p.147</ref>
 +
*ブライアン・モリス(Morris,1968,pp.65-94)は、ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、同時代の劇作家クリストファー・マーロウ [[:wiki:en:Christopher Marlowe|Christopher Marlowe]]の『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えている、と指摘した。これに対して、ゲイリー・テイラー(Wells & Taylor,1997,p.116)は、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論した。
 +
*2016年には、方言や言語表現のビッグデータの解析により、『ヘンリー六世』など、シェークスピアの17作品がマーロウとの共作であることが明らかとなった<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3105572 AFP BB NEWSトップ > ライフ > 文化・芸術 > シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明], 2016年10月25日</ref>。
  
もっとも英文学者でまともに別人説を取上げる人はほとんどいないようである。全戯曲を翻訳したシェイクスピア研究家の[[小田島雄志]]は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と一蹴している。
+
パトリック・マーフィ(Murphy,2001,p.??)は、シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『テンペスト』だと評価している。
  
2016年には方言や言語表現のビッグデータの解析により、ヘンリー六世などの17作品がクリストファー・マーロウとの共作であることが明らかとなった<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3105572 シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明] AFPBB 2016-10-25</ref>。
+
Neilson & Thorndike(1913)は、シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている、と指摘している。
  
== 備考 ==
+
シェイクスピアは[[弱強五歩格]]という[[韻律 (韻文)|韻律]]を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように[[散文]]の比率が高い戯曲もある(出典?)。
* [[日本]][[千葉県]][[南房総市]]に、シェイクスピアの生家が忠実に再現されている公園がある<ref>[http://www.rosemary-park.jp/park_guide/parkguide_new.html シェイクスピア・カントリー・パーク]</ref>
+
* ロンドン橋の近くに、[[グローブ座]]が再建されている。<ref>[http://www.shakespeares-globe.org/navigation/frameset.htm ]</ref>
+
* 2005年4月21日、[[イギリス国立肖像画美術館]]は、多くの本の表紙を飾るシェイクスピアの肖像画『フラワー・シェイクスピア』の描かれた時期が生存中の作ではなく、その死後約200年後の1814年 - 1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。
+
* 2009年3月9日、生前の肖像画と考えられるものが発見された。
+
* [[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「偉大な英国人」投票で第5位となった。
+
* [[1970年]]から[[1993年]]にかけて用いられた20[[スターリング・ポンド|UKポンド]][[紙幣]]に肖像が描かれている。
+
  
== 関連作品 ==
+
==== シェイクスピア別人説 ====
各作品の派生作品については、その作品の記事を参照のこと
+
シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていないことや、法律や古典などの知識がなければ書けない作品を執筆していることが学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかとの主張や、「シェイクスピア」という筆名を一座の劇作家たちが使い回していたのではないかとの主張もなされている(出典?)。
* 映画『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』([[1966年]]、監督:[[オーソン・ウェルズ]]、『リチャード三世』・『ヘンリー四世』・『ヘンリー五世』・『ウィンザーの陽気な女房たち』、およびラファエル・ホリンシェッドの『年代記』を再構成)
+
*真の作者として推定された人物には、哲学者[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]や第17代オックスフォード伯[[エドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)|エドワード・ド・ヴィアー]]、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィル [[:wiki:en:Henry Neville (politician)|Henry Neville]]などがいる。
* 映画『[[恋におちたシェイクスピア]]』([[1998年]]、監督:[[ジョン・マッデン (映画監督)|ジョン・マッデン]])
+
*シェイクスピア研究家の[[小田島雄志]]は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、として別人説を否定している。
* 演劇『ソネットの黒婦人(The Dark Lady of the Sonnets)』:[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]作。『[[ソネット集]]』の黒婦人のモデルとされる女性と、シェイクスピア、[[エリザベス1世|エリザベス女王]]を主たる登場人物として書かれた喜劇。
+
 
* 演劇『[[天保十二年のシェイクスピア]]』:[[井上ひさし]]作。『[[リア王]]』『[[ハムレット]]』『[[ロミオとジュリエット]]』をはじめとしたシェイクスピア全作品の筋書き・台詞を組み合わせ、舞台を江戸期の日本に置き換えた戯曲。
+
=== 成立時期 ===
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戯曲作品のうち、いくつかはシェイクスピアの生前に四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品は1623年の『ファースト・フォリオ』に収録されるまで未刊行のままであった。
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 +
このため、生前に自作の信頼できる版が刊行されていない多くの作品について、作品の版本ごとに原文に異同のある異本が存在するというテキスト上の問題があり、戯曲作品の正確な創作年代については多くの議論がある。
 +
*ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられている<ref>Richard Dutton, ''The Birth of the Author,'' in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, ''Texts and Cultural Change in Early Modern England,'' London: Macmillan, 1997: p.161</ref>。
 +
*こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる<ref>Fredson Bowers, ''On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists,'' Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, pp.8-10</ref>。
 +
このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変部分を判別する[[本文批評]]が現代の研究者や編者にとって大きな問題となっている。
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一つの作品について極端に異なる2つの版本が存在する場合に問題は深刻になる。
 +
*「バッド・クォート」と呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらは『ファースト・フォリオ』の編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる<ref>Alfred W. Pollard, ''"Shakespeare Quartos and Folios"''. London: Metheun, 1909, xi.</ref>。
 +
*それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方の版本からすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン [[:wiki:en:Madeleine Doran|Madeleine Doran]]以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つの版本の存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 ''"The Division of the Kingdom"'' において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している<ref>Gary Taylor and Michael Warren, ''"The Division of the Kingdoms"''. Oxford: Clarendon Press. 1983.</ref>。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版([[:wiki:en:The Oxford Shakespeare|The Oxford Shakespeare]])の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。
 +
 
 +
== 日本語訳 ==
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=== 最初の翻訳 ===
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*日本での最初のシェイクスピア作品の完全訳は、[[1883年]]に大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に掲載された、和歌山の学校教師・河島敬蔵による『ジュリアス・シーザー』だったとされる<ref name="佐野,2006,p.40">佐野,2006,p.40</ref>。
 +
*1884年に[[坪内逍遥]]が『ジュリアス・シーザー』の日本語訳『該撒奇談自由太刀余波鋭鋒(しいざるきだんじゆうのたちなごりのきれあじ)』を発表し、以後1928年までにシェイクスピアの劇作品37、試作品3を翻訳した<ref name="佐野,2006,p.40" />。
 +
*河島の『ジュリアス・シーザー』は逐語訳だったが、坪内は伝統的な七五調の[[浄瑠璃]]の文体を用い、各場面の前に簡単な梗概を付した。河島は1886年の『ロミオとジュリエット』の翻訳では、坪内に倣って七五調の文体を用い、『春情浮世の夢』という浄瑠璃ないし歌舞伎調の題を付した。<ref name="佐野,2006,p.40" />
 +
*しかし、その後のシェイクスピア作品の日本語訳では、現代口語逐語訳が訳文体として定着した<ref name="佐野,2006,p.40" />。
  
* 戯曲の小説化『シェイクスピア物語』:[[チャールズ・ラム]]、[[メアリー・ラム]]
+
=== 沙翁 ===
* テレビドラマ『[[未来世紀シェイクスピア]]』([[2008年]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、監督:[[二階健]])
+
「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は'''沙吉比亜'''で、これは中国語(繁体字)表記「莎士比亞」の「莎」を「沙」、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。'''沙翁'''と呼ばれることもある。(出典?)
* 漫画『[[7人のシェイクスピア]]』:[[ハロルド作石]]作、[[ビッグコミックスピリッツ]]連載
+
* 映画『[[もうひとりのシェイクスピア]]』([[2011年]]、監督:[[ローランド・エメリッヒ]]) [[シェイクスピア別人説]]をモチーフとしている。
+
* 舞台『[[Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜]]』([[2016年]]、作・演出:[[生田大和]]、主演:[[朝夏まなと]]、[[実咲凜音]])
+
  
== 日本の著名な訳者 ==
+
=== 主な訳者 ===
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+
* 河島敬蔵
* [[坪内逍遥]]
+
* 坪内逍遥
 
* [[三神勲]]
 
* [[三神勲]]
 
* [[竹友藻風]]
 
* [[竹友藻風]]
 
* [[本多顕彰]]
 
* [[本多顕彰]]
 
* [[福原麟太郎]]
 
* [[福原麟太郎]]
* [[西脇順三郎]] 
+
* [[西脇順三郎]]
 
* [[小津次郎]]
 
* [[小津次郎]]
 
* [[中野好夫]]
 
* [[中野好夫]]
300行目: 220行目:
 
* [[野島秀勝]]
 
* [[野島秀勝]]
 
* [[小田島雄志]]
 
* [[小田島雄志]]
* [[安西徹雄]] 
+
* [[安西徹雄]]
 
* [[河合祥一郎]]
 
* [[河合祥一郎]]
 
* [[松岡和子]]
 
* [[松岡和子]]
 
* [[浅野和三郎]](若き日のみ)
 
* [[浅野和三郎]](若き日のみ)
{{div col end}}
 
日本で最初の完全なかたちで翻訳されたシェイクスピア劇は『ジュリアス・シーザー』で、1883年に河島敬蔵の訳で大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に連載された<ref>[https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/asano37.pdf 日本における『ロミオとジュリエット』 ]佐野昭子、『帝京大学文学部紀要― 米英言語文化』第37号、平成18年度</ref>。
 
  
== 脚注 ==
+
== 関連作品 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
各作品の派生作品については、その作品の記事を参照。
{{reflist}}
+
=== 映画 ===
 +
* 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』[[1966年]]、監督:[[オーソン・ウェルズ]]、『リチャード三世』・『ヘンリー四世』・『ヘンリー五世』・『ウィンザーの陽気な女房たち』、およびラファエル・ホリンシェッドの『年代記』を再構成。
 +
* 『[[恋におちたシェイクスピア]]』1998年、監督:[[ジョン・マッデン (映画監督)|ジョン・マッデン]]
 +
* 『[[もうひとりのシェイクスピア]]』2011年、監督:[[ローランド・エメリッヒ]]。[[#シェイクスピア別人説|シェイクスピア別人説]]をモチーフとしている。
 +
=== 演劇・舞台 ===
 +
* 『ソネットの黒婦人(The Dark Lady of the Sonnets)』[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]作。『[[ソネット集]]』の黒婦人のモデルとされる女性と、シェイクスピア、[[エリザベス1世|エリザベス女王]]を主たる登場人物として書かれた喜劇。
 +
* 『[[天保十二年のシェイクスピア]]』[[井上ひさし]]作。『リア王』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』をはじめとしたシェイクスピア全作品の筋書き・台詞を組み合わせ、舞台を江戸期の日本に置き換えた戯曲。
 +
* 『Shakespeare 空に満つるは、尽きせぬ言の葉』[[2016年]]、作・演出:[[生田大和]]、主演:[[朝夏まなと]]、[[実咲凜音]]
 +
=== 小説 ===
 +
* 『シェイクスピア物語』[[チャールズ・ラム]]、[[メアリー・ラム]]
 +
=== テレビドラマ ===
 +
* 『[[未来世紀シェイクスピア]]』2008年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、監督:[[二階健]]
 +
=== 漫画 ===
 +
* 『[[7人のシェイクスピア]]』[[ハロルド作石]]作、[[ビッグコミックスピリッツ]]連載
 +
=== 肖像画 ===
 +
[[ファイル:FlowerPortraitofWShakespeare.jpg|thumb|エドガー・フラワーによる肖像画]]
 +
* 1970年から1993年にかけて用いられた20[[スターリング・ポンド|UKポンド]]紙幣に肖像が描かれた。
 +
* 2005年4月21日に[[イギリス国立肖像画美術館]]は、多くの本の表紙を飾っていたエドガー・フラワーによるシェイクスピアの肖像画の描かれた時期が、シェイクスピア生存中の1609年ではなく、死後から約200年後の1814年 - 1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。
 +
* 2009年3月9日に、生前の作と考えられる肖像画が発見された。
 +
=== 建築物 ===
 +
* [[ロンドン橋]]の近くに、[[グローブ座]]が再建されている(出典?)。
 +
* [[日本]]の[[千葉県]][[南房総市]]の[[シェイクスピア・カントリー・パーク]]には、シェイクスピアの生家が忠実に再現されていたが、2012年頃に閉鎖された。2018年現在も[[道の駅ローズマリー公園]]内に建物が残り、案内所などとして利用されている。(出典?)
  
== 関連項目 ==
+
== 付録 ==
 +
=== 関連項目 ===
 
* [[イギリス・ルネサンス演劇]]
 
* [[イギリス・ルネサンス演劇]]
* [[復讐悲劇]]
 
* [[問題劇]] 
 
 
* [[ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー]]
 
* [[ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー]]
* [[サミュエル・ジョンソン]]  
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* [[サミュエル・ジョンソン]]
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== 外部リンク ==
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* [http://shakes.meisei-u.ac.jp/ 明星大学シェイクスピアコレクションデータベース]
 
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* [http://kakugen.aikotoba.jp/Shakespeare.htm シェイクスピア名言集] ([http://kakugen.aikotoba.jp/ 世界傑作格言集])
 
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=== 脚注 ===
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=== 参考文献 ===
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2018年4月1日 (日) 18:52時点における最新版

1623年の『ファースト・フォリオ』にも付されたシェークスピアの肖像画

シェイクスピア, ウィリアム(William Shakespeare, 1564年4月23日頃 - 1616年5月3日)は、イングランド劇作家詩人。1585年-1592年頃にロンドンで演劇俳優・劇作家としての活動を始め、1613年頃に引退するまでに、『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など、多くの戯曲作品を残した。『ヴィーナスとアドーニス』などの物語詩や、『ソネット集』などの詩作もある。またその著作は、初期近代英語を知るための言語学的資料ともなっている。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1564年4月23日頃[1]、イングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford-upon-Avon)で、父ジョン・シェイクスピアと母メアリー・アーデンの間に8人きょうだいの3番目の子として生まれる。父・ジョンはスニッターフィールド(Snitterfield)出身の皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員、母・メアリーは、ジェントルマンの娘だった。両親ともローマ・カトリックの信者だったと推測されている。

学歴は不明で、ストラトフォードの中心にあった文法学校(後のエドワード6世校 King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に通っていたと推定されているが、在籍を示す確証はない[2]

父・ジョンはウィリアムの生まれた頃には裕福であったが、羊毛の闇市場に関わったとして起訴され、市長職を失った。ウィリアムは家庭が没落したため学校を中退したという説もあるが、前記のとおり在籍自体確かではなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[3]

1582年11月29日、18歳のとき、アン・ハサウェイ(当時26歳で、妊娠3ヶ月だった)と結婚[4]。翌1583年5月頃に長女・スザンナ、1585年1-2月頃に長男ハムネットと次女ジュディスの双子をもうけている[5]

失われた年月[編集]

1585年に双子が生まれた後、1592年にロンドンの劇壇に名を現わすまでの間、どこで何をしていたのか、また何故ストラトフォードからロンドンへ移ったのかは不明で、研究者から「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれている[6]

  • ホニグマン(Honigmann,1985)は、ランカシャーのホートン家の人物が記した遺言書にある「ウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft)」という人物への言及に基づき、シェイクスピアが同地で教職についていたという説を提唱している[7]
  • 他に、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているが、いずれも死後に広まった噂とみられている。

ロンドンの劇壇進出[編集]

1592年頃には、劇場や劇団が次々と設立されていたロンドンで、演劇俳優として活動しながら、脚本を執筆。1590年-1592年の史劇『ヘンリー六世』三部作を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』など、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される作品を発表した(出典?)。

  • フィリップ・ヘンズロウ(Philip Henslowe)の日記には、『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が、1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っている。
  • 劇作家ロバート・グリーンの1592年の著書『三文の知恵』(Greene's Groatsworth of Wit)には、シェイクスピアを評したとみられる記述がある[8]

1594年末頃には、俳優兼劇作家であると同時に劇団「宮内大臣一座」[9]の共同所有者となり、同劇団が本拠地としていた劇場・グローブ座の共同株主にもなっていた。

ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作を行い、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行した。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。

中期[編集]

1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』などの喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていった(出典?)。

1596年に、紋章院に申請をして、シェイクスピア家の紋章を取得[10]。同年、ビショップスゲート(Bishopsgate)のセント・ヘレン(St Helen's Church)教区へ転居。同年、長男ハムネットが死去し、8月11日に葬儀が行なわれている。

1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色』(Every Man in His Humour)では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されている。またシェイクスピアの四折判では、1598年刊の『恋の骨折り損』で、初めてタイトル・ページに著者名が記された[11]。このため、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していたとみられている(出典?)。

後期[編集]

1599年に、ロンドン郊外のサザ-ク(Southwark)へ転居したと見られている。

同年、『ジュリアス・シーザー』を発表。後期の作品では、軽やかさが影をひそめ、1600年代初頭の四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「問題劇」と呼ばれている。(出典?)

1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、ジェームズ1世が自ら庇護者となることを約束し、劇団「宮内大臣一座」は「国王一座」に改称した。

この頃、「国王一座」の上演劇の脚本執筆や劇団経営の傍ら、俳優業も継続し、『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる(出典?)。

晩期[編集]

アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。

1604年には家主の娘の仲人を務めており、1612年にこの娘の結婚時の持参金を巡る裁判に証人として出廷している[12]

晩年[編集]

(いつ?)法的問題や商取引についての様々な公文書から、ロンドンのブラックフライヤーズ(Blackfriars)の不動産や、ストラトフォードの邸宅ニュー・プレイス(New Place)を購入していたことが分かっている(出典?)。

1613年に引退した後は、故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンに帰り、ニュー・プレイスで暮らしたとみられている[13]

死去[編集]

生涯最後の数週間に、次女ジュディスの婚約者で居酒屋経営者のトマス・クワイニーが婚前交渉の嫌疑により地元の教会裁判所に告発され、告発相手が死亡する事件が発生した[14]。シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正している(出典?)。

1616年のユリウス暦4月23日(グレゴリオ暦5月3日)に52歳で死去。

  • 死因は腐敗したニシンから感染した感染症であったらしいが、詳細は不明である(出典?)。

遺骸はストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会(Church of the Holy Trinity)の内陣に埋葬された[15]

最初の全集刊行[編集]

没後7年を経た1623年に、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集『ファースト・フォリオ』が刊行された。

家族[編集]

シェイクスピアには息子1人と娘2人があり、孫が4人いたが、曾孫はなく、直径の子孫は孫娘エリザベス・ホール(1670年2月17日に死去)で絶えている。

またシェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント[16]の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがあり、ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称していた。ダヴェナントにはチャールズ(1656年 - 1714年)とウィリアム(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの子だったとすれば、シェイクスピアの血筋は18世紀初めまで続いたことになる(出典?)。

  • 父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)
    • 父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)
  • 母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)
    • 母方の祖父:ロベルト・アーデン
  • きょうだい
    • 長兄 ジョン(1558年)
    • 長姉 マーガレット(1562年 - 1563年)
    • 長弟 ギルバート(1566年10月13日 - 1612年2月3日)
    • 長妹 ジョーン(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - ウィリアム・ハートと結婚して、3男1女をもうけた(シェイクスピアの甥、姪にあたる)
      • 甥 ウィリアム(1600年 - 1639年)
      • 姪 メアリー(1603年 - 1607年)
      • 甥 トマス(1605年 - 1661年)
      • 甥 ミカエル(1608年 - 1618年)
    • 次妹 アン(1571年 - 1579年)
    • 次弟 リチャード(1574年 - 1613年)
    • 三弟 エドモンド(1580年 - 1607年12月31日)
  • 妻 アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日)
    • 長女 スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日)
      • 娘婿 ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - スザンナの夫。医師。
      • 孫 エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - スザンナとジョン・ホールの娘。
        • 孫婿 トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。
        • 孫婿 ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。
    • 長男 ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 1596年に11歳で夭折。ジュディスとは双子。
    • 次女 ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - ハムネットとは双子。
      • 娘婿 トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - ジュディスの夫。居酒屋経営者。
      • 孫 シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 長男。1歳になる前に死去。
      • 孫 リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日)- 次男。20歳で死去。
      • 孫 トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日)- 三男。19歳で死去。

[編集]

「シェイクスピア」の姓について、精神学者でシェイクスピアのファンだったジークムント・フロイトは、イギリス人らしくない名前や、チャンドスの肖像画(Chandos portrait)から、シェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとした[17]

作品[編集]

以下、作品の推定執筆年代は、リバーサイド版シェイクスピア全集(Riverside Shakespeare)による。

戯曲[編集]

1623年に刊行された最初の著作集『ファースト・フォリオ』において、シェイクスピアの戯曲作品は悲劇・史劇・喜劇という3区分に分類された[18]

しかし、喜劇に分類された作品の中には、喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な問題を提起するかのような作品も存在する。このため、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし「悲喜劇」の用語を与えた。また後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。以下で、Rは「ロマンス劇」、Pは「問題劇」と分類されることもある作品を表わす。

悲劇[編集]

史劇[編集]

喜劇[編集]

[編集]

外典と散逸した戯曲[編集]

材源と作風[編集]

シェイクスピアの戯曲には、他の劇作家の作品に依拠している作品や、古い説話や史料などを材源とした作品が多い。

  • 例えば、『ハムレット』(1601年ごろ)は、現存しない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであること、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが指摘されている[19]
  • 史劇作品は、古代ローマ古代ギリシアを舞台とした作品と近世イングランドを舞台とした作品に大別されるが、前者の材源としてプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース Thomas Northによる1579年の英語訳)、後者の材源としてラファエル・ホリンシェッド Raphael Holinshedの『年代記』(The Chronicles of England, Scotland, and Ireland、1587年の第2版)の存在が指摘されている。『年代記』は史劇だけでなく、『マクベス』や『リア王』の素材にもなっている。[20]
  • ブライアン・モリス(Morris,1968,pp.65-94)は、ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、同時代の劇作家クリストファー・マーロウ Christopher Marloweの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えている、と指摘した。これに対して、ゲイリー・テイラー(Wells & Taylor,1997,p.116)は、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論した。
  • 2016年には、方言や言語表現のビッグデータの解析により、『ヘンリー六世』など、シェークスピアの17作品がマーロウとの共作であることが明らかとなった[21]

パトリック・マーフィ(Murphy,2001,p.??)は、シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『テンペスト』だと評価している。

Neilson & Thorndike(1913)は、シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている、と指摘している。

シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある(出典?)。

シェイクスピア別人説[編集]

シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていないことや、法律や古典などの知識がなければ書けない作品を執筆していることが学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかとの主張や、「シェイクスピア」という筆名を一座の劇作家たちが使い回していたのではないかとの主張もなされている(出典?)。

  • 真の作者として推定された人物には、哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィル Henry Nevilleなどがいる。
  • シェイクスピア研究家の小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、として別人説を否定している。

成立時期[編集]

戯曲作品のうち、いくつかはシェイクスピアの生前に四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品は1623年の『ファースト・フォリオ』に収録されるまで未刊行のままであった。

このため、生前に自作の信頼できる版が刊行されていない多くの作品について、作品の版本ごとに原文に異同のある異本が存在するというテキスト上の問題があり、戯曲作品の正確な創作年代については多くの議論がある。

  • ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられている[22]
  • こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる[23]

このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変部分を判別する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となっている。

一つの作品について極端に異なる2つの版本が存在する場合に問題は深刻になる。

  • 「バッド・クォート」と呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらは『ファースト・フォリオ』の編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる[24]
  • それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方の版本からすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン Madeleine Doran以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つの版本の存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 "The Division of the Kingdom" において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している[25]。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版(The Oxford Shakespeare)の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。

日本語訳[編集]

最初の翻訳[編集]

  • 日本での最初のシェイクスピア作品の完全訳は、1883年に大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に掲載された、和歌山の学校教師・河島敬蔵による『ジュリアス・シーザー』だったとされる[26]
  • 1884年に坪内逍遥が『ジュリアス・シーザー』の日本語訳『該撒奇談自由太刀余波鋭鋒(しいざるきだんじゆうのたちなごりのきれあじ)』を発表し、以後1928年までにシェイクスピアの劇作品37、試作品3を翻訳した[26]
  • 河島の『ジュリアス・シーザー』は逐語訳だったが、坪内は伝統的な七五調の浄瑠璃の文体を用い、各場面の前に簡単な梗概を付した。河島は1886年の『ロミオとジュリエット』の翻訳では、坪内に倣って七五調の文体を用い、『春情浮世の夢』という浄瑠璃ないし歌舞伎調の題を付した。[26]
  • しかし、その後のシェイクスピア作品の日本語訳では、現代口語逐語訳が訳文体として定着した[26]

沙翁[編集]

「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は沙吉比亜で、これは中国語(繁体字)表記「莎士比亞」の「莎」を「沙」、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。沙翁と呼ばれることもある。(出典?)

主な訳者[編集]

関連作品[編集]

各作品の派生作品については、その作品の記事を参照。

映画[編集]

演劇・舞台[編集]

小説[編集]

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

肖像画[編集]

エドガー・フラワーによる肖像画
  • 1970年から1993年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれた。
  • 2005年4月21日にイギリス国立肖像画美術館は、多くの本の表紙を飾っていたエドガー・フラワーによるシェイクスピアの肖像画の描かれた時期が、シェイクスピア生存中の1609年ではなく、死後から約200年後の1814年 - 1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。
  • 2009年3月9日に、生前の作と考えられる肖像画が発見された。

建築物[編集]

付録[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. 誕生日を直接示す史料が存在するわけではないが、1564年4月26日に洗礼を受けており、エリザベス朝時代には出生証明書が発行されておらず、洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったことから、伝統的に誕生日は4月23日とされてきた。4月23日は聖ジョージの日にあたり、またシェイクスピアの死没年月日が1616年の4月23日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では5月3日)とされていたことからも、この推定が支持されてきた。
  2. 同校は、ローマ・カトリック教会の関与の下、15世紀初頭に開校され、1482年にストラトフォードに寄贈された。同校の学籍簿は散逸しており、シェイクスピアの在籍を裏付ける史料は確認されていない。地元の男子は無料で入学でき、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうとの推測から、同校に通学していたことが推定されている。同校ではラテン語文法や文学の集中学習が行なわれており、ラテン語の習熟に役立てるため、講義の一環として学生たちがラテン語劇を演じていた。(Greenblatt,2004,pp.25-28)また、シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』 (The Two Menaechmuses) との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つとされている(Park,1999,p.43)。
  3. Greenblatt,2004,pp.25-28
  4. アンはショッタリー Shotteryの出身であるが、ある公文書においてストラトフォードにも近いテンプル・グラフトン Temple Graftonの人と記されていることから、同地で結婚式が行なわれた可能性が高いと推測されている。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。
  5. 長女・スザンナの洗礼式は1583年5月26日、長男ハムネットと次女ジュディスの洗礼式は1585年2月2日に行われた。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた
  6. Honigmann(1999)p.1, Gray(1998)
  7. 遺言書には、戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) の面倒を見てやってほしい」という親族への要請があり、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンがランカシャーの生まれであったことから、「ウィリアム・シェイクシャフト」とはシェイクスピアのことであり、コットンがホートン家にシェイクスピアを教師として推薦したと主張した。ウッド(Wood,2003,p80)は、ホニグマンの説について、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことを付け加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。
  8. 役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァース Blank verseを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」との記述がある。シェイクスピアの名前は出てこないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公の台詞「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」(O tiger's heart wrapt in a woman's hide!)をもじっていることや、「舞台を揺るがす者」(Shake-scene)の表現がシェイクスピアの名を連想させることから、シェイクスピアに言及したものとみられている
  9. 当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。
  10. 父・ジョンは、まだ裕福だった頃に、紋章取得を紋章院に嘆願していたが取得できておらず、シェイクスピアにとって紋章の取得は宿願だった、とみられている。シェイクスピアは高等教育を受けていなかったとみられ、また俳優は当時いかがわしい職業とされていたが、経済的に大きな成功を収めていたため、紋章が取得できたとみられている。紋章に記された銘は、シェイクスピア自身が考案したもので、“Non sanz droict” (フランス語で「権利なからざるべし」)と記されている。Greenblatt(2004)は、この銘文は、ある種の守勢や不安感を示しており、社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようだ、としている。
  11. それ以前の作品は著者名が記されていないか、もしくは1623年の『ファースト・フォリオ』に収録されるまで未刊のままだった。
  12. (出典?)裁判記録によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いだったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細についての交渉をシェイクスピアに依頼した。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こした。シェイクスピアは、この裁判の証人として召喚されたが、当時の状況をほとんど覚えていなかった。
  13. Mobley,1996,p.5
  14. マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張して、間もなく母子ともに死亡した。
  15. Holderness(2001,pp.152-154)は、シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためであり、シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと推測している。シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアが執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年4月23日には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる(出典?)。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。Good friend, for Jesus' sake forbear,/ To dig the dust enclosed here./ Blest be the man that spares these stones,/ And cursed be he that moves my bones. 副葬品として未発表作品が墓の中に納められているという伝説があるが、確かめた者はいない(出典?)
  16. 17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している。
  17. Jones(1961)p16, Shapiro(2010)pp.14–15
  18. Craig,2003,p.3
  19. Hunter,1997,pp.494-496.
  20. Dutton & Howard,2003,p.147
  21. AFP BB NEWSトップ > ライフ > 文化・芸術 > シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明, 2016年10月25日
  22. Richard Dutton, The Birth of the Author, in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, Texts and Cultural Change in Early Modern England, London: Macmillan, 1997: p.161
  23. Fredson Bowers, On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists, Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, pp.8-10
  24. Alfred W. Pollard, "Shakespeare Quartos and Folios". London: Metheun, 1909, xi.
  25. Gary Taylor and Michael Warren, "The Division of the Kingdoms". Oxford: Clarendon Press. 1983.
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 佐野,2006,p.40

参考文献[編集]

  • Craig(2003) Leon Harold Craig, Of Philosophers and Kings: Political Philosophy in Shakespeare's Macbeth and King Lear, University of Toronto Press, 2003, DOI 10.3138/9781442677999
  • Dutton & Howard(2003) Richard Dutton and Jean Howard ed., A Companion to Shakespeare's Works, Volume II: The Histories, Blackwell Publishing, 2003, ISBN 978-0631226338
  • Gray(1998) Terry A. Gray, SHAKESPEARE'S TIME LINE (doc)
  • Greenblatt(2004) Stephen Greenblatt, Will in the World: How Shakespeare Became Shakespeare, Jonathan Cape Ltd, 2004, ISBN 978-0224062763
  • Holderness(2001) Graham Holderness, Cultural Shakespeare: Essays in the Shakespeare Myth, University of Hertfordshire Press, 2001, ISBN 978-1902806112
  • Honigmann(1985) E. A. J. Honigmann, Shakespeare: The Lost Years, Manchester University Press, 1985, ISBN 978-0719017926
  • Hunter(1997) G. K. Hunter, English Drama 1586-1642: The Age of Shakespeare, Oxford: Clarendon Press, 1997, ISBN 978-0198122135
  • Jones(1961) Ernest Jones, The Life and Work of Sigmund Freud, Vol.1, Basic Books, 1961.
  • Mobley(1996) Jonnie Patricia Mobley, Access to Shakespeare: Hamlet Manual/Study Guide, Lorenz Educational Publishers, 1996, ISBN 978-1885564092
  • Morris(1968) Brian Morris, Christopher Marlowe, Benny Hardouin, 1968, ISBN 978-0510330217
  • Murphy(2001) Patrick Murphy, The Tempest: Critical Essays,, Routledge, 2001, ISBN 978-0815324713
  • Neilson & Thorndike(1913) William Allan Neilson and Ashley Horace Thorndike, The Facts About Shakespeare, The Macmillan Company, 1913
  • Park(1999) Honan Park, Shakespeare: A Life, Clarendon Pr, 1999, ISBN 978-0198117926
  • Shapiro(2010) James Shapiro, Forgery on forgery, Times Literary Supplement 5581, 26 March 2010
  • Wells & Taylor(1997) Stanley Wells and Gary Taylor, William Shakespeare: A Textual Companion, W. W. Norton & Company, 1997, ISBN 978-0393316674
  • Wood(2003) Michael Wood, In Search of Shakespeare, BBC Books, 2003, ISBN 978-0563521414
  • 高原(1926) 高原延雄『世界文学大綱 第3巻 シェークスピア』東方出版社、1926年、NDLJP:1939800
  • 佐野(2006) 佐野昭子、「日本における『ロミオとジュリエット』」(pdf)『帝京大学文学部紀要 - 米英言語文化』第37号、2006年、pp.37-50