辛淑玉

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辛 淑玉
辛 淑玉

辛 淑玉(シン スゴ、女性、1959年1月16日- )とは、東京都生まれの実業家のりこえねっと (ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)共同代表、シューレ大学アドバイザー。東京都立第一商業高等学校卒業。在日韓国人3世。先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人をつとめる。

概要

自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める。

生い立ち

東京都渋谷区生まれ、祖父は労働者として働き、父は弁護士を目指して中央大学法科へ入学し卒業した。母は日本生まれ日本育ちの在日二世だった。

4歳の頃、それまで一緒に遊んでいた友だちが幼稚園に入園、「幼稚園に行きたい」と父にねだったが、幼稚園と交渉した結果、朝鮮人の子どもは入園できないことを知った。この体験は、自分が朝鮮人であることを強く自覚する契機となったという。日本の敗戦後、弁護士を目指していた父(渡日より、既に41年が経過)は、韓国政府の決定により、韓国籍を与えられることになった。終戦後は裕福な家庭ではなかったという。

日本の小学校に入学後、朝鮮総聯活動家の「朝鮮学校は、貧しい人にはちゃんと昼食を支給します」の言葉を信じ、朝鮮学校に転校した。転校直後は半日本人を意味する蔑称であえる「パンチョッパリ」と呼ばれ、「総括」と呼ばれる反省会の場で「思想が悪い」と「自己批判」させられることもあった。また、ジーパンを穿いていたというだけで活動家から暴行された。ヘルニアを患っているのはこれが原因である。

収入を得るため、小学校2年のときから内職をし、小学校4年からはヤクルト販売の仕事に従事した。その後成人してから、ヤクルト販売の女性を見かけるたびにヤクルト販売での苦労を思い出し、ヤクルト1本を買い求めては心の中で「ガンバレ」と念じることが習い性という。

転校ばかり続いた彼女は、教室のみんなに紹介されると、まず、一番強そうな男の子を、カバンでバシーッと殴って「 よろしくなー 」と言ってから、悠然と着席した。そうすると、いじめられなかった。給食当番の時は、天敵には「 おい日本人の男って小食なんだって 」と言ってスープを数滴だけ垂らしてにらみつけた。

中学生の頃、美容室のヘアモデルで収入を得たのをきっかけに、ヘアショーにも出るようになった。中学2年のころ、朝鮮学校で夏の遠足「革命キャンプ」のお金が払えなかった。そのことで朝鮮籍の教師に責められたことに対して反論したため、数人の教師から殴られた。その後に家出し親戚の家に逃亡していたが、すぐに連れ戻された。父は手を尽して転校先を探し、日本人が通う杉並区立泉南中学校に転校した。

中学卒業後、東京都立第一商業高等学校に入学した。新宿の焼肉料理店「名月館」などさまざまなアルバイトの収入で2つの予備校、代々木ゼミナール代々木学院に通った。また高校在学中には就職に向けて、商業英語、珠算、簿記、カナタイプなどさまざまな資格検定を取得。高校卒業後は各種のアルバイトに勤しむ。17歳で銀座のモデルクラブに所属した。翌年映画のエキストラ出演で知りあった 「DJ 」に音楽の仕事を紹介してもらい、しばらくモデルと兼業した。

なお、自身のホームページにおいては、自身の経歴について

小学校:転校、不登校の繰り返し。小学校2年まで通う。
中学校:転校、不登校、家出の末、中学校3年の一年間のみ通う。
高校:卓球と絵が上手だったので合格( いまでいう一芸入学 )。
入学当時、「 ツ 」と「 シ 」、「 ン 」と「 ソ 」の違いがわからなかった。
教師のお目こぼし、配慮にて、なんとか卒業。
卒歴:都立第一商業高校( 実際の学歴…小学校2年? )

と記載していた。ただし、都立第一商業高校に一芸入学に類する入学制度は存在しない。

20歳の時博報堂で契約社員(特別宣伝班)。家族のため、夜間はアルバイトを続けた。勤務中の4年間でおよそ1600回司会を務めたのち、1983年頃に退社、フリーランスの広告業者として独立。この頃、本名(辛淑玉)を名乗ることを決意。

1985年、台東区三ノ輪に女性社員1人を雇って人材育成会社・香科舎を設立した。TBS系テレビ番組「サンデーモーニング」やその他の番組にゲストやコメンテーターとして出演した。

名前とアイデンティティ

韓国籍だが、“在日朝鮮人”あるいは“在日コリアン”を自称している。本名である「辛淑玉」のほか、通名として「新山」を用いた新山節子(にいやませつこ)があり、「せっちゃん」と呼ばれて育つ。またモデル時代に、源氏名として辛節子を名乗ったこともある。東京生まれの東京育ちでサバサバした性格と語り口であり、彼女曰く「チャキチャキの江戸っ子」であるとも語っている。

1987年に帰化を申請をしたが、「辛淑玉」の名義はそのまま使いたいと申し出たところ、担当審査官から「もっと日本人らしい名前にしろ」と言われ却下されたという。“当用漢字にも含まれているしそのまま読み仮名抜きで”と申し出や日本語読みならよいかという譲歩にも、改名しないのは「あなたには、よき日本人になろうという意思が感じられない」と担当者から拒絶されたと主張している。

2003年7月30日に愛知淑徳大学で行なった講演「もう一度人権を考える」では、「チョー・ヨンピルさんも植民地時代に付けられた日本の名前持っているわけ」と発言し、第二次世界大戦後の韓国生まれのチョー・ヨンピルが通名を持っているとの主張を展開した。

社会的活動