「有田焼」の版間の差分

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2018年3月10日 (土) 12:11時点における最新版

有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里古九谷様式柿右衛門様式金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、天皇家に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年昭和52年)10月14日経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。

JR九州佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景がみられる。

「有田焼」と「伊万里焼」[編集]

有田、三川内波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。また英語での呼称も "Imari" が一般的である。「有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もある。

歴史[編集]

磁器生産の開始[編集]

肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まった。豊臣秀吉朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰った。肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った、その中の一人が李参平(りさんぺい、イ・サムピョン、一説には韓国忠清南道金江出身)である。彼は1616年元和2年)(1604年説あり)に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていた。

李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。広く信じられているように日本で最初に磁器を焼いたかどうかまでは別としても、肥前磁器の発展に大いに貢献したことは確かであり、有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。

近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1615年頃から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっている。 この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(藍九谷)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色一色で図柄を表わした磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、釉薬を掛けて焼造する。 当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じを用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられる。

1637年寛永14年)に鍋島藩が、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在の皿山を形作った。この頃までの有田焼を骨董界ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。

色絵磁器の登場・発展[編集]

その後1640年代に中国人によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになった。伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっている。ただし従来言われていた加賀国石川県南部)での生産も、1650年代から20年間程ごく小規模に行なわれていた(この産地問題については、別項「九谷焼」を参照)。なお、ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていた。


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↑有田焼の皿
17世紀後半に生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、窯跡の発掘調査の結果によれば、この種の磁器は柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっており、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっている。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。

17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになった。有田の金襴手は中国明代後期の嘉靖萬暦期の金襴手をモデルにしている関係から、皿底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多いが、これは中国製のイミテーションを試みたとするより、デザインの一部として取り入れたものであると考えられている。

また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産した。安価で流通したこれらの碗は、当時出現して人気を得た屋台でも食器として使用された。当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶ。

一方、「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。

当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。

海外への輸出[編集]

磁器生産の先進国であった中国ではからへの交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年万治2年)より大量に中東ヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まったコーヒーチョコレートのためのセット物までもあった。

こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい価格競争に晒されることとなる。また、江戸幕府1715年海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行なった事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。 19世紀は明治新政府の殖産興業の推進役として各国で開催された万国博覧会に出品され、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まった。この輸出明治伊万里は第四の伊万里様式美として研究され、確立されつつある。万国博覧会の伊万里と称される。

作品[編集]

重要文化財(国指定)[編集]

(伊万里)

(鍋島)

その他[編集]

  • 色絵狛犬(佐賀県重要文化財)17世紀後半
  • 染付有田皿山職人尽し絵図大皿(佐賀県重要文化財)19世紀

雑記[編集]

関連項目[編集]

陶磁器を作る際に出る廃棄物(規格外品や陶石から陶土を作る際に出る滓など)を配合し製造した陶磁器。
毎年ゴールデンウィークごろに佐賀県有田町で開かれる焼き物の市。値段の高い一級品に比べて格段に値段が安い陶磁器が大量に販売される。同時に多くのイベントも催される。
有田町にある町立美術館
有田町にある県立の陶磁器博物館。コレクションは全国有数。
有田焼が使われている楽器
有田焼を使った万華鏡。有田焼 陶匠の天眼鏡

有田焼 インテリア寿壺

  • 火10ドラマ(当枠の劇中で供給される食器は常に有田焼である)

参考文献[編集]

  • 荒川 正明『色絵の誕生と古九谷の不思議』芸術新潮 Vol.55(12)、P.64~69、2004/12(ISSN 04351657) 新潮社
  • 東京国立博物館読売新聞社編集『華麗なる伊万里、雅の京焼 : 特別展』読売新聞社、2005年10月
  • 蒲地孝典『幻の明治伊万里 悲劇の精磁会社』日本経済新聞社 2006/4

外部リンク[編集]

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